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Channel: YU@Kの不定期村
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【総括】「仮面ライダーアマゾンズ シーズン1」 “仮想敵”を喰っちゃいけない理由なんて、どこにもない

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こんにちは、YU@K(@slinky_dog_s11)です。

「仮面ライダーアマゾン」は私の特撮オタクの師匠(?)にあたる叔父が好んでいた作品で、昔から彼の「アマゾンみたいなのが“いい”んだよ」という教育を受けていた。とはいえ幼心にアマゾンに正統派なカッコよさを覚えることはなく、しかし謎の存在感と異色性だけはピカイチで、VHSで何度もあの荒々しい闘いを鑑賞していた。いい歳して仮面ライダーを愛好する今になって、叔父の「アマゾンこそが“いい”」という切り口が非常にオタクライクな感性からくるものだったと感じるくらいには、このコンテンツとの付き合いを続けてきた。

「最近のライダーは面白いですか? 個人的には、ここ数年あまりおもしろいと思っていない」。特撮オタク界隈に何千回目かの不毛な騒動をもたらした東映・白倉プロデューサーのこの言葉は、「仮面ライダーアマゾンズ」製作発表の場で発せられた。元よりそういった炎上ニュアンスを含む言論や企画が専売特許のプロデューサーだが、私個人は、この発言にはドキリとしたものを感じざるを得なかった。「おもしろい」とは非常に多角的な表現であり、funnyかもしれなくて、interestingかもしれなくて、でも私がこと平成ライダーについてこの言葉を用いるならば、「熾烈さ」というボンヤリとした指標と近いのかな、と思っている。





何度も「個人的な感想」だと前置いておくけれど、私もここ数年の仮面ライダーには「熾烈さ」を感じなくなっている。クウガやファイズを小中学生の頃に観た世代だが、録画した内容を週に何度も何度もテープが擦り切れるまで鑑賞して、アーデモ・コーデモと稚拙ながら考察と妄想を展開し、毎週日曜の朝にギンギンの眼でテレビの前に正座する。そういった“熾烈に仮面ライダーを楽しんでいた私”は、ここ数年鳴りを潜めているのが本音だ。言うまでもなくこれは鎧武が例外に当たるのだが、その「熾烈さ」を白倉プロデューサーの言う「おもしろさ」と同じだと仮置くのなら、彼のセンセーションな言説には頷く他にない。(プロデューサーの立場として発言内容が適当だったかはここでは触れないことにする)

これは、いわゆる“平成2期”の作風だとか、販促の縛りだとか、表現規制だとか、勿論のように観る側である私の好みや感性の変化も含めて、一概に「面白い・面白くない/良い・悪い」と言えるものではないし(言うつもりもないし)、とはいえそれら全てを度外視して、単純に私個人にとって「熾烈にハマることがなくなったな」と、ただそれだけの話なのだ。だから、「最近のライダーは~」とプロデューサー自ら言ってのけた「仮面ライダーアマゾンズ」は、作風だとか表現規制だとかそういう事象以前に、ごくシンプルに「また熾烈にハマらせてくれるだろうか」という期待と不安を抱かせるものだった。

全話を観終わってみて、なるほど確かに「平成1期ドリームチーム」が手掛けただけはあるな、というのが率直な感想だった。それは、どこまでいっても「良くも悪くも」。先に断言してしまうと、実は表面的な要素としては微塵も目新しさは無く、グロい殺人方法はクウガが、怪人と人間のアイデンティティに悩む様はファイズが、種の生存における選択を迫られるドラマは剣が、それぞれ平成ライダー1期と呼ばれる作品群が取り扱ってきた内容だ。アマゾンズで繰り広げられたこれらはほとんど新鮮味に乏しく、しかし、だからこそこれを“2016年の今”にやってのけることが、企画趣旨だったのだと納得を得ている。(新鮮味はなくとも“踏み込んだであろう点”については後述)





ひとつひとつの側面を紐解いていくと、まずは肝心要のライダースーツのデザインだが、主人公である水澤悠が変身するアマゾンオメガはいかにも平成ライダーなメタリックボディであり、対する鷹山仁のアマゾンアルファは原典アマゾンを直球ストレートに現代版に再解釈したものとなっている。それぞれ、オメガが「養殖」、アルファが「野生」と銘打たれているが、アクション(動き)の方向性は真逆。養殖オメガが誰よりも荒々しい動きを披露し、野生アルファが理知的な佇まいを魅せる。研ぎ澄まされた経験則を身に着けた野生動物は無駄のない洗練された動きをするというが、まさにそれが垣間見えるバランスであった。アルファがあのファイティングスタイルに辿り着くまでに幾多の戦いで体中の傷を負ったと考えると、とても男の子心をくすぐられる。

スタッフとして、特筆すべきはメインライターの小林靖子。平成ライダーでは言うまでもなく龍騎・電王・オーズを手掛けた脚本家であり、彼女がアマゾンズの全13話をひとりで書き上げている。監督陣も石田秀範・田﨑竜太・金田治と平成ライダーを観てきた人にとっては「なるほど」なメンバー。まさに「平成1期ドリームチーム」といったところだ。シナリオ、もといストーリー展開については後述するとして、映像も非常に凝ったものが作られていた。全編でテレビ用ではなく映画用のレンズが用いられており、常に青みがかった陰鬱な空気とダークな色調。時に暗すぎる気がしなくもなかったが、人体損壊描写も含め、今の日曜朝8時には絶対できない映像だったと言えるだろう。

各監督の担当として、石田監督は詩的でメッセージ的な映像を、田崎監督はアイデアとハッタリに満ちたロジカルな映像を、金田監督は正統派に違和感のフックを織り交ぜた特異な映像を、それぞれ披露してくれた。とはいえ正直に言うと所々古臭さを感じないといったら嘘で、こういった部分が「良くも悪くも平成1期ドリームチーム」だと、そういう感想に落ち着ている。





キャスト陣は、とにかく熱演が光っていた。いかにも今風なイケメンというか、線の細い優男とも言ってしまえる水澤悠役の藤田富は、序盤の(役作りも含めた)ナヨナヨさが終盤には一変して引き締まった表情に変わっており、現場での奮闘が見て取れる。最終回の変身までの一連の演技に代表されるように、彼の絶妙に焦点の合わない視線が(最終的な)どこか達観したようなキャラクター造形に寄与していた。鷹山仁役の谷口賢志はゴーゴーファイブのゴーブルーとして親しみ深いが、言ってしまえばオーソドックスな「マイペース年上キャラ」を熱演。チャラチャラしていて、だらしなくて、でも常に瞳の奥は燃えている。周囲より何倍も経験を積んでいて、過酷な戦いをとうに潜り終えている。だからこそ、割り切っている自分を俯瞰して捉えることもできる。

紅三点な女性キャストも魅力的だったが、最大の功績は主題歌「Armour Zone」である。毎回、「ええ!?」という展開の最後にあのエキセントリックなイントロが流れ、「イェェェェェイイ」な歌い出しに入ると、否が応でもテンションが上がってしまう。「風を切れ、声を枯らして、獣が嗤うこの街で。喰うか喰われるかの運命」。このサビをバックに繰り出される次回予告に、毎度必要以上かもしれないワクワクを抱かされてきた。

…という感じで語れば角度は尽きないが、最大の妙であるストーリーに、やはり最も文字数を割いておきたい。



※以下、「仮面ライダーアマゾンズ」のストーリーに関するネタバレがあります。


言うまでもなく、本作最大の魅力はそのストーリーといえる。前述のように平成ライダー1期の要素を色濃く持ちながら、ネット配信だからこそ踏み込める領域。それは、人間誰しもが根本的に抱える問題、「弱肉強食による捕食関係=種族差別問題」。これがアマゾンズの物語の核となっている。

タンパク質の摂取量等の物語的理屈は去ることながら、そもそもが「強い者が弱い者を殺して喰って何が悪いのか」という種の根源的なメッセージであり、平然と暮らしている我々数十億人の誰もがこの問いからは逃れられない。宗派の違いはあれど、人は誰もが植物や肉や魚の命を殺めることで自らの命を繋ぎとめている。人がこの地球の頂点に立ってから、それは法律などという明文化される以前の話として、「動物は殺して喰っても構わない」「植物を摘み取って喰っても構わない」という倫理観は、粛々と受け継がれてきた。

そこに明確な理由があるのか・無いのか(理由を持てるのか・持てないのか)、それは有史以来の哲学者が考え込んできたのだろうが、その答えを常に持っている人がどれだけいるのだろうか。理屈以前に感情として、「喰って良いから喰って良い」、なのだ。それ以上でもそれ以下でも無い。

では、植物でも肉でも魚でもない、新しい生命体が人間より上の捕食カーストに突如出現した時に、人間はその「文化的に全く慣れの無い」存在相手にどう立ち回るのか。そして、その新しい生命体は下位の人間とどう向き合うべきなのか。「人間が捕食カーストの“頂点では無くなった”ら?」。それが、アマゾンズが提示した「決して答えの無いテーマ」である。





種の差別に関しては、それこそ平成ライダー1期で何度も繰り返し描かれてきた。特にファイズはそれこそが主軸で、「最悪な人間」も「善良なオルフェノク」も存在して、それならばその生物の是非はどこで判断できるのか、という問題提起にこそ旨味があった。アマゾンズメインライターの小林靖子作品で挙げるなら、浅倉という極悪な人間もいたし、モモタロスやアンクといった人間以上に人間味溢れる人外もいた。では、“そいつ”の善し悪しを決めるのは、果たして「種」なのか。そうで無いなら、誰がそれを見極め、決定を下すのか。そうやって、これまでの平成ライダーも意欲的に踏み込んできた側面に、アマゾンズは更に「捕食カースト」による倫理観問題までプラスしているのだ。何よりも平成ライダー的で、更にタブー染みている。(あえて言うならば、最も近いのはキバと言えるだろう)

新生命体「アマゾン」は、一度人肉を口にすると人間に対する捕食衝動を抑えきれなくなる。終盤のモグラアマゾンことマモルに顕著だったが、それは既存の人間関係を全て無に帰してしまうほどの衝動。カニバリズムという宗教儀礼による人肉摂取習慣そのものは存在するが、構造はもっとシンプルで、我々人間が食欲・睡眠欲・性欲を時にどうしても我慢できない、ただ“それだけのこと”なのだろう。アマゾンたちは、その全個体が好きで人間を食べている訳では無かった。加工されたハンバーグを自身の衝動遅延のために食べる者も、人間を襲ったことを後悔し続ける者もいた。

そんなアマゾンたちの苦悩が繰り広げられた最後の最後で、主人公・悠はこれぞ日曜の朝には絶対にタブーな台詞を叫んでのける。「正直、人を食べちゃいけない理由なんて分かんない!そのせいで、アマゾンが生きてちゃいけない理由なんて分かんない!」。私は、どんなグロ描写より、どんな陰鬱な要素より、この台詞ひとつが最大級の「アマゾンズらしさ」だったのではないかと、強く感じている。我々人間が牛肉や鶏肉を食べるように、魚を食べるように、野菜を貪るように、同じように人間を食べる。そこに根源的な欲求があるのなら、じゃあ何故それはタブーなのか。法律も意味を持たない人間より上位の生命体が、下位の存在を喰っちゃいけない理由は何なのか。人間は、自分たちより下位の生き物を幾年と喰ってきたのに。

「人間は、自分たちが捕食カーストの最上位だと信じて疑っていない」。その奢りこそがアマゾンズが視聴者に向けて突いた死角であり、企画そのものの仮想敵である平成ライダー1期がギリギリ踏み込めなかったタブー領域なのだ。





そして、この問いかけと“驕り”に絶対的な答えは無い。答えられるのは(その権利があるのは)、人間にずっと捕食され続けてきた動物や植物だけだからだ。だからこそ、作品テーマとして「これ!」という解答は用意できないからして、必然的に「見解の相違による対立」が落とし所になってくる。かくして、悠と仁は捕食カースト問題で決定的に袂を分かち、命を削って戦い合うのだ。

視聴者は、悠と仁のどちらにより共感できるのか(もしくはどちらも理解不能か)の三択を無意識に突きつけられる。悠の考えはどこまでいっても「甘ちゃん」であり、例えアマゾンでも暴走したら粛清するしかないと、究極のワガママをパワープレイで貫き通そうとしている。対する仁は、卵を食べるのと同じように、殺された者は喰われて然るべきだと、元来からのアマゾンへの過剰な恨みを決して曲げようとはしない。ブレる線引きを力尽くで主張するアマゾンと、ブレられない意固地な線引きを力尽くで主張するアマゾン。億単位の人間誰もが種レベルでの解答を提示できないのだから、後は争うしかない。意見が違えば争い合う、これに限っては、人間に限らない多くの生物が繰り返してきた所作なのだから。

だから、私はこの「対立エンド」がこの上なくアマゾンズらしい帰結であり、中途半端でも何でもなくて、ドンピシャな落とし所だったと捉えている。悠は、自分が明確な答えを示せないからこそ、その「示せない」だけは貫く。そうやって、アマゾンだけのコミュニティのぶれぶれな長(おさ)として君臨する。あの海辺では、何度もアルファとオメガの戦いが繰り返されてきたのだろうし、これからも続いていくのだろう。だからこそ捕食カーストで、だからこそアマゾンズなのだ。あの戦いが、詰まるところ「主張のぶつかり合い」が、永遠に続いていく(解答が提示されない)。これこそが、この問題を手がけたからこそ落ち着くべき地点なのだ。





とはいえ、「仁がどうしてそこまでアマゾン殲滅に固執するのか」や「他でもない悠が人間に対する捕食衝動で苦悩する」辺りをもうちょっと尺長く描いて欲しかった気もするし、特に序盤は長尺なシーンばかりで非常にダレたし、所々「惜しい」と感じるポイントも少なくは無かった。でも、答えがないことを答えと解釈するのならば、シーズン2はもはや無い方が良いんじゃないかと、そんな思いも過ってくる。




おそらく、日曜朝の平成ライダーという仮想敵があるからこそ出来たのではないかとも思っていて。あの枠の規定路線のようなものがあり、それが判断基準やベースとなって、それとは違うもの、すごいものを作ってやろうという、一歩踏み出すモチベーションが湧いてきたのではないかと。

・フィギュア王 NO.221 『仮面ライダーアマゾンズ』チーフプロデューサー 白倉伸一郎 インタビュー



アマゾンズの仮想敵は、言うまでもなく平成ライダーそのもの。作り手も、観る側も、平成ライダーという仮想敵が常に脳内にあり、ひとつひとつのシーンにクウガやファイズ等々が悠然と立ちはだかってくる。時に打ち負かされ、時にかわしながら、でも最終回を観た時に、私はその更に斜め上に登り詰めたアマゾンズの姿を垣間見たような気がして、心底「熾烈さ」を感じたのだ。海岸で叫びながら殴り合う両雄は、私を十年以上前の“あの頃”に引き戻してくれたような、そんな錯覚を与えてくれた。何より、この作品が世に出た流れに感情を大きく翻弄されたという体験こそを、これからも大事にしていきたい。


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