【注意】本記事にはゲーム『ニューダンガンロンパV3』のトリック・犯人・結末に関するネタバレが含まれています。未プレイ者は読まないことを強く奨励します。
こんにちは、結騎 了(@slinky_dog_s11)です。
やっとこさ『ニューダンガンロンパV3 みんなのコロシアイ新学期』のストーリーモードをクリアし、エンディングまでの全てを目撃した。風の噂で結末には賛否両論だと聞いてはいたが、それ以上の具体的な情報を完全にシャットアウトして臨んだ最後(6章)の学級裁判。“新章”を謳いながらも希望ヶ峰学園の要素が登場した5章で臭わせた通りに、真の黒幕は江ノ島盾子のフォロワーであったことが判明する。
ダンガンロンパシリーズ初の「生き残っているメンバーの中に黒幕がいる」展開を経るも、ストーリーは更に斜めに転がり続けていく。全ては「ダンガンロンパというフィクションの物語」だと明かされた作中人物たちの“放棄”という結末、そして命を投げ出すエンディング。全てを終えて、私は心からの拍手を贈りたい気持ちでいっぱいだった。そうだ、これだ、これがダンガンロンパだ、と。というより、本音を言うと、むしろこれが賛否両論なことに驚いている。
ダンガンロンパって、私の中では最初から“こういうもの”だったし、今作もそれをしっかり全うしたという印象がある。むしろ、これを“是”とする気構えのようなものを、私はこのシリーズから教わったとすら思っているからだ。
「現状維持は衰退」。かのウォルト・ディズニーが残した格言として有名だが、キワモノだった単発ゲームが巨大なメディアミックスを構築するコンテンツにまで成長し、アニメに舞台にスピンオフに目覚ましく発展してきたからこそ、私はこの言葉がぴったりのように思える。『V3』において、ダンガンロンパは“現状維持”を選ばなかった。みんなが幼少期から聴き慣れた心の友である大山のぶ代に破廉恥かつ下品な単語をこれでもかと叫ばせ、十代の少年少女が意図的に無残に命を散らされ、しかしそれらを“論破”“裁判”といういかにも匿名掲示板に慣らされた現代の退屈人が好みそうな要素でクレバーに彩ってみせる。そういう「攻め」こそがダンガンロンパであったし、『V3』でも確かに「攻め」た。あとは、その方向性に好みが分かれるというだけの話だ。
しかし前述のとおり、私は『V3』においてこの「攻め」の姿勢が貫かれたことこそに拍手を贈りたいのだ。すごい!ダンガンロンパというコンテンツを、作り手自ら暗礁に乗り上げさせた。分かっていて、わざと雲行きを怪しくした。上では「むしろこれが賛否両論なことに驚く」と書いたものの、それはあくまで私個人の感想に照らし合わせた感情であり、“こんな結末”にすれば賛否両論になるのは火を見るより明らかなのだ。
これまで何度も我々シリーズファンの感情を操ってきた製作陣が“そんなこと”も分からずに“こんな結末”を用意したはずがないのだ。分かっていて、それでもやった。誤用の意味での盛大な確信犯。しかも、フィクション世界でフィクション世界を取り扱うという究極のメタ&タブー。これ以上ない「攻め」だし、いくところまでいった訳だし、これ以上は“ない”だろう。だからこそ賞賛したいし、だからこそ感慨深いのだ。ダンガンロンパというシリーズは、最後の最後まで立派に我々を翻弄してくれたのだ。
むしろ私は、『V3』は4章までの方がいまいち乗り切れなかった。つまらない、の一歩手前というか、要は“目新しさ”が無かったが故の無感情に近い感覚があった。北山猛邦氏も参加したという各章のトリックそのものは非常に凝っていたし、一章でやってのけた叙述トリック、プログラム世界というゲーム媒体だからこそ成立・演出できる舞台設定など、むしろ過去2作より凝り過ぎなくらい凝っているという印象があった。しかし同時に、「トリックにいくら凝ろうがそれはダンガンロンパとしては新しくない」という感覚が非常に強く、要は、そこをいくら深めても単にバリエーション・パターン違いの範疇に収まってしまう悔しさを覚えてしまっていた。「面白い。確かに面白いのだけど、これは“俺の知っているダンガンロンパ”でしかない」。4章までの『V3』は、決して私を翻弄させてはくれなかったのだ。気に入ったキャラクターが死ぬ喪失感も、学級裁判の面白さも、配置された謎要素も、全て過去作プレイを通して“見知った”要素でしかなかったからだ。
そうして、私は4章までは「ストーリーのオチを見るためにプレイを進めていた」というのが本音だ。確かに面白かった。非常に面白かった。けど、この「面白い」は「ダンガンロンパにおける“面白い”」とイコールではない。「普通に“面白い”」は、「ダンガンロンパにおける“面白い”」ではない。そんなんじゃ足りない。そんなんじゃ、ダンガンロンパとしては足りない。
見知ったルールの中で見知った展開がバリエーション違いで発生する。そんなんじゃ全然足りない。1作目で翻弄され踊らされたあの感覚、その1作目を踏まえた謎で最後まで圧倒的な牽引力を見せた2作目、それに続く3作目として、“こんなの”じゃ食い足りないのだ。知ってる展開。知ってる感情。ただバリエーションとパターンが違うだけ。それは、私が渇望する「ダンガンロンパにおける“面白さ”」に届くものではなかった。
だからこそ、5章で希望ヶ峰学園の要素が登場した際に、私は歓喜の叫び声を上げた。この『V3』発表時に、「希望ヶ峰学園シリーズはアニメで完結」&「新シリーズをゲーム3作目でスタート」という趣旨の報道がなされ、「『V3』は希望ヶ峰学園とは別の舞台と物語」という先入観を植え付けられていた。とは言いつつ警戒心を緩めることはなかったが、それでも「やっぱり希望ヶ峰学園関連の物語でしたー!」という展開は、「やってくれたな!」と笑顔になってしまう。…とはいえ、とはいえ、だ。“これ”すらも、喜びつつもやはり既定路線というか、想像の範囲に収まるものであった。その理由は、「これがダンガンロンパだから」である。
ダンガンロンパとはどういうゲームか。ディレクター兼シナリオライターの小高和剛氏は、インタビューで以下のように述べている。
――これまでと大きく変えたところ、逆に変えなかったところについて教えてください。
「閉鎖空間に閉じ込められた16人の生徒たちがコロシアイをする」というシチュエーションは、前2作と変わりません。そこは「『ダンガン』ってこうだよね」とユーザーさんが期待するところなので、変えようとは思いませんでした。
・モノクマ的『ニューダンガンロンパV3』舞台案内! 「ダンガンロンパ」シリーズ開発者の声も【特集第3回】
確かにここにあるように、「閉鎖空間に閉じ込められた」「16人の生徒たち」「コロシアイ」というシチュエーション、そして、それに付随する「学級裁判」「おしおき」といったシステム、マスコットキャラである「モノクマ」は、紛れもないダンガンロンパのアイデンティティだ。これこそがダンガンロンパであり、これが無くちゃダンガンロンパではない、と言い切れるほどに。しかし、シリーズのファンの方はご承知のことと思うが、これは「ダンガンロンパのアイデンティティ」であると同時に、「江ノ島盾子のアイデンティティ」でもあるのだ。世界に絶望を伝播させた江ノ島盾子こそが、ダンガンロンパという世界観・システム・マスコットキャラ、その全ての“担い手”なのだ。
つまりは、「ダンガンロンパがダンガンロンパである以上、江ノ島盾子からは逃れられない」という呪縛が、このシリーズをずっとシリーズ足らしめてきたのである。だからこそ、今回の『V3』が小高氏の語る【そこは「『ダンガン』ってこうだよね」とユーザーさんが期待するところ】を満たしている以上、それはイコール、「江ノ島盾子に関わる物語」でしかあり得ないのだ。
コロシアイの構図を作ったのも、学級裁判という制度を設けたのも、おしおきという処刑ルールを強いたのも、そして何よりモノクマを作ったのも、他ならぬ江ノ島盾子なのだ。1作目、2作目、そしてアニメ『3』を観た人ならば、この意味は嫌でも分かるはずである。「フォロワーの犯行」を含め、ダンガンロンパがダンガンロンパである以上、江ノ島盾子と完全に切り離した産物になるはずがないのである。
だから私は、「希望ヶ峰学園とは切り離した(と思われる)完全新章」の『V3』に「よくぞ割り切った!」と感心しつつ、それでも『V3』がダンガンロンパである以上(もっと言うと、モノクマが出ている以上)それは絶対に「江ノ島盾子に関わる物語」=「希望ヶ峰学園の物語」という証左であり、何重にも矛盾した期待値と警戒心を抱きながら『V3』をプレイしていたのだ。そして案の定、過去作から切り離した作りではなかったことが、5章で明らかになる。「江ノ島盾子」「希望ヶ峰学園」「絶望の残党」。嫌というほど聞き慣れた単語が一気に飛び交い始める。
この時点ですでに「(半ば想定内とはいえ)よくぞ“完全新章”の看板を裏切ってくれた」という爽快感を抱いていたが、物語は更に二転三転。江ノ島盾子のフォロワーであった白銀つむぎが江ノ島盾子の姿で登場し「ここでコスプレイヤーの設定が活きてくるのか」と感心していたが、物語はそこから更に斜め上の方向にブーストをかけ出す。「この世界は視聴者が存在する“ダンガンロンパというリアルフィクション”である」。つまり、主人公や仲間の全てが視聴者に面白がってもらうために作られた“キャラクター”であったというのだ。…という、いわゆるメタフィクション展開に突入する訳だが、まさか1作目や2作目までもを巻き込んだ壮大などんでん返しを発動してくるとは思ってもみなかった。
言うまでもなく、『V3』作中でダンガンロンパを鑑賞する世界中の一般市民は、このゲームをプレイする現実の我々を模している。「絶望は伝染する」とはよく言ったもので、それがつまりフィクションの世界を突き抜けて「絶望は伝染する(ダンガンロンパをプレイしたくなる)」という意訳が出来てしまうほどに大きなコンテンツに成長したダンガンロンパ。我々はこの作品を通して、必然的にコロシアイを求め、おしおきを求め、精神的苦痛を求め、血を求め、裏切りを求め、そして、「その絶望を最後には愚直なまでの希望が打ち砕く」という“分りやすいカタルシス”を求めているのだ。とことん絶望が蔓延り、物語は“下がり”、そして希望が勝利する“上げ”展開でスカっとする。この感情の推移までもが、紛れもない「ダンガンロンパ」なのだ。
希望が勝ったから何だというのだ。それはフィクションの中の出来事。我々の世界が何か良くなる訳ではない。絶望が負かされたから何だというのだ。全てはフィクションの中で起きたこと。分かりやすい適役がその野望を挫かれただけ。そうやって、我々はフィクションに対する内心冷静な“壁”を持ちつつ、それでも、分かっていながら、フィクションに熱中する。分かっていてなお感情移入を期待し、分かっていてなお物語への没入を試みる。
つまり、『V3』が試みた「攻め」は、「ダンガンロンパがダンガンロンパでなくなること」なのだ。それは、「ダンガンロンパの核を成す要素が全て江ノ島盾子の手によるもの」である以上、作品的「模倣犯」を除外した後の、たったひとつの解答。
“新章開幕”。新しいダンガンロンパの幕を開けることは、江ノ島盾子からの脱却=ダンガンロンパからの脱却でしか“成立し得ない”。そこまでに、そうやって自壊するしかないほどに、ダンガンロンパはコンテンツとして膨れ上がってしまったのである。ダンガンロンパがダンガンロンパであることを脱却しようとするのであれば、それは、ダンガンロンパという“フィクション”をひとつ上の次元で正真正銘の“フィクション”に貶める他に手立てはない。だって、最初からダンガンロンパなんてフィクションなのだ。苗木誠なんて人間は、この世に存在しないのだ。みんな分かっていたそれを真正面から突き付ける手段しか、もう「攻め手」は残されていなかったのである。
「ダンガンロンパが新しいダンガンロンパであろうとするならば、これ以上ダンガンロンパであってはならない」。まるで禅問答のような一文だが、私は『V3』にこのようなテーマを感じ取ったのだ。これまでと同じ希望ヶ峰学園を舞台としたダンガンロンパでは、それは常に「攻め」てきたダンガンロンパには許されない“現状維持=衰退”。かといってコロシアイや学級裁判という設定だけを借りた別パターンのダンガンロンパでは、それは江ノ島盾子のアイデンティティから逃れられないことを同時に意味付けてしまい、これもまた“現状維持=衰退”。「ダンガンロンパが新しいダンガンロンパであろうとするならば、これ以上ダンガンロンパであってはならない」。新しいダンガンロンパには、“新章”の名のもとに過去に積み上げた全てを使ってその全てを崩すしか道が残されていなかったのである。そして、その「新しいダンガンロンパ」を求めたのは、作中同様、外の世界の一般市民(=我々)なのだ。
だからこそ、だからこそ、だ。私は、この『V3』のクライマックスの展開に、心から拍手を贈りたいのである。ちゃんと最後まで「攻め」た。立派に「攻め」きった。大きな大きなコンテンツに育ったダンガンロンパにこういう道を辿らせるのは、生みの親(製作陣)として苦渋の決断だったと思われる。しかし、ダンガンロンパがどこまでもダンガンロンパであるために、ダンガンロンパを“崩す”。その偉大なる決断がこうして本筋のナンバリングタイトルで行われる潔さ。よく「攻め」た。よくぞ自壊した。よくぞ思い切った。よくぞ“やからした”。それでこそダンガンロンパだ。
ここまでくると、作中の白銀つむぎが語るフィクションが果たして“どこまで”なのかを考察することすらも無意味に思えてくる(記憶捏造の有効範囲、プロローグとの相違点等、挙げればきりが無いのだけど)。彼女が「ダンガンロンパというフィクション」の可能性を作中で提示した時点で、「ダンガンロンパがダンガンロンパでなくなること」はほぼ達成されてしまったからだ。
そして主人公たちは、「希望で打ち勝つ」ことも、「絶望に屈する」ことも、そのどちらも選ばない。「分かっていてなお感情移入を期待する」ことも、「分かっていてなお物語への没入を試みる」ことも、彼らは許してはくれない。ただただ、プレイする我々を翻弄し突き放して終幕に突き進む。ダンガンロンパの特性である「絶望に希望が打ち勝つことで演出される感情の推移」すらも、意地でも“達成させない”。それこそが、至上の「攻め」であり、それこそが「ダンガンロンパ」だからだ。
『V3』を終え、今改めて振り返ると、私が1作目からずっとダンガンロンパの“なに”に惹かれていたかが、やっと見えてきたように感じる。私はダンガンロンパの「豪華声優陣」に惹かれた訳でも、「ストーリー」でも「世界観」でも「ゲームシステム」でも「キャラクター」でもなくて、その全ての要素が絶妙に噛み合い・影響し合い・補い合い、しかし確実に尖ったキワモノの面をする「コンテンツ」の形そのものに惹かれていたのだ。“ダンガンロンパ”という、唯一無二のバランスを持つ“集合知”。
その「唯一無二性」が現状維持に甘んじることなく、いくところまでいった。ダンガンロンパであることに華々しく殉じた。果敢に攻めて突き抜けて、そしてまるで崖から勢いよく飛び出していった。まさにそれこそが、「ダンガンロンパ」なのではないだろうか。脇道に逸れる「ダンガンロンパ」や、ましてやスピードを緩める「ダンガンロンパ」なんて、見たくはなかったし、今回嬉しくも見なくて済んだのだ。かくして、『ニューダンガンロンパV3 みんなのコロシアイ新学期』における“才囚”は“最終”として、実質的なシリーズ完結編の地位に堂々と君臨してみせたのだ。
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