こんにちは、YU@K(@slinky_dog_s11)です。
またもや毎週楽しみに観ていたドラマが終わってしまった。日本テレビの土曜ドラマ「掟上今日子の備忘録」。主演は新垣結衣、そのワトソン役であり助演に岡田将生。作家・西尾維新による小説の実写化とのことだが、私はこれまで氏の作品には(アニメも含めて)全く触れたことがなく、たまたまテレビで予告映像を観て興味を持ったのがきっかけであった。というのも、第一印象は「ドギツイ」だった。何を隠そうあの新垣結衣の白髪のカツラだ。昨今“実写化”の際のビジュアル面には色んな方向からのバッシングが強い傾向にあるが、そんな最中にあんなに真っ白なカツラを被せた主演のドラマってどうなんだ …と一瞬身構えたのが始まりだった。
とはいえ観てみないことには何も言えないので、後追いで録画しておいた第1話を視聴すると、これがどうして中々面白い。ガッキー演じる掟上今日子(おきてがみ きょうこ)なる人物は探偵であり、寝ると記憶がリセットされる“忘却探偵”の異名を持っていた。毎日新しい知見と人間関係に触れ合う彼女と出会うのは、不運な冤罪体質の隠舘厄介(かくしだて やくすけ)。演じるのは“爽やかさ”の化身・岡田将生。その体質ゆえに事件を持ち込みつつワトソン役に収まっていく厄介くんと、彼を振り回しながらゴーイングマイウェイで事件を解いていく今日子さん。そのタッグを中心として、「いつもの場所」である喫茶店の面々や刑事たちという人物配置、基本は1話完結で進むライトなミステリーになっている。
「寝ると記憶がリセットされる」という一種の記憶障害である今日子さんだが、その体質に心を閉ざすことなく“探偵稼業”を全うしていく。探偵であり謎を解くことが彼女の生きがいであり、謎と触れ合うことで毎日リセットされる自分と世間を繋いでいる。そんな儚い毎日も込みで、彼女に異性として惹かれていく厄介。当初は「クライマックスはこの2人の恋愛模様になるのかなぁ」と思って観ていたが、割と早い段階で厄介は告白までやってのけ、見事に撃沈する。しかしその告白失敗劇すらも、今日子さんの記憶には残らない。そんなジレンマに悩みながら、厄介は今日子さんへの想いを「Kの備忘録」というタイトルで文字にして残していく。そんな2人の、ある種究極の“一方通行”な恋がドラマシリーズ全10話を通して着々と描かれていく。
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面白いのは、今日子さんの「寝ると記憶がリセットされる」という記憶障害が、ミステリーのロジックとしてこの上なく機能していることだ。そもそもが探偵としてスピード解決を売りにしており(日を跨ぐ捜査が不可能)、更には機密の漏えい、守秘義務、これらが確実に守られることを物理的に約束できる。しかしそれは諸刃の剣であり、例えば睡眠薬等で意図的に眠らされてしまった場合はそれまでの捜査も推理も全て無に帰してしまう。ただ単に謎を解くだけでなく、「今日しかない」というタイムリミット、そして常に今日子さんの身体が危険に晒されているという状況設定があることで、ミステリーとしての“角度”(楽しみ方)が多くなっているのだ。
第1話でいきなり犯人に睡眠薬を盛られるシーンが挿入され、彼女の探偵としてのスキルとロジックがしっかり視聴者に提示される作りになっていた。そして、今日子さんが常にその弱点を抱えているからこそ、彼女と連続して関わっていく厄介が自動的にそれをフォローする役割になり、ナイトの地位を獲得していく。しかしその厄介の熱心なフォローすらも、今日子さんには“今日”しか覚えてもらえない。
これらの作劇のロジックに加え、何よりもキャスティングが素晴らしかった。新垣結衣と岡田将生。こんなにも清潔感のある組み合わせもそうあるまい。「昨日の自分を認知できない」という、ともすれば恐怖でしかない背景を背負ったキャラクターを、新垣結衣は意図的に淡々と演じ切る。「昨日と今日と明日の自分は別人」という“割り切り”と“諦め”を背負った複雑なキャラクターだが、軽妙で淡々とした語り口とあざとすぎる可愛さ、時に出る意地の悪さや悪戯な面も、その全てが“明日に繋がらない”ことを観ているこちら側に“惜しい”と思わせる。
そんな屈折した愛着を持たせるキャラクターを、新垣結衣は見事に演じていたと思う。「こんなに色んな表情を見せる今日子さんは、明日にはもう“いない”んだ…」。フィクション世界の“翌日”を心配して、観ている側が勝手に凹む。今日子さんの表情や仕草は番組開始時点では非常に淡々としているのに、それがいつの間にかその回の終わりになると深みと人間味に満ちた視線や表情になっている。今日この日に関わって彼女が得た感情はこんなにも豊かなのに、でもそれは“続かない”。今日子さんへの同情と、でもそれを何とも思っていないように振る舞う彼女とのその距離感を埋めたくて毎週視聴するけど、その傷口は広がっていくばかりである。
対する厄介は、特に終盤ともなるとやっていることは完全に今日子さんの重度のストーカーであった。彼女を毎日のように追いかけ回し、その全てを自宅のパソコンに記録する男なんて、どう考えても危ない野郎である。しかし、これを岡田将生が演じることでその気持ち悪さを完全に無効化。むしろひっくり返って純粋で実直な恋にしか映らないからすごい。さすがのイケメンである。不運設定も、毎度掴まされる冤罪に彼が顔をくしゃくしゃにして泣きそうな表情を浮かべるだけで、私なんか同じ男なのに「可愛い…」と感じてしまっていた。彼はどうにも「振り回される真面目くん」がよく似合う。そして、不運だからこその心優しさや、すぐ調子に乗ってしまうその性格、視聴者より半歩先くらいでキレる頭、岡田将生が見事に厄介というキャラを実在のものにしていた。
魅力的で清潔感あふれるこの2人が、毎週風変わりな事件に遭遇していく。その事件自体も、回り回って2人の境遇と今後を示唆するメッセージのようであり、現実を突きつけるものだったり、様々であった。今日子さんが「はい、僭越ながら!」と笑顔で事件を解き明かして、厄介くんがオーバーなリアクションで彼女に振り回される。シナリオも演出も、その全てが「この2人をずっと観ていたい」に全力で注力しており、視聴者の多くがそれにまんまとやられたことだろう。私も、例外なく。
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番組開始前に少しだけ心配していた今日子さんのカツラも、全く違和感を覚えなくなっていく。作品そのもののフィクションラインが意図的に高めに設定されており、登場人物のダジャレのような名前・“いかにも”な雰囲気で登場するゲストキャラ・文字が画面を縦横無尽に行き交う演出など、実写ドラマなのに小説やアニメっぽい「嘘」の成分が高めであった。元が文字だけの作品ということもあってか厄介によるモノローグの量も相当多く、しかし絶対にテンポ感を損なわないリズムになっていたのは演出班の勝利だろう。リアルと嘘の線引き提示が絶妙であり、その線上において「白髪のカツラ」は問題がないほどに滲んでしまう。まあ、新垣結衣が持ち前の可愛さで何でも着こなす、というのも大きいが…。
文字が挿入される演出は同じ演出班がドラマ「ST 赤と白の捜査ファイル」でも多用していたものだが、効果音や演出のタイミング、いくつものフォントをビビッドな色に乗せて交差させる手法は、観る者を“ながら見”から引き上げるには十分な力を持っていた。音だけ聞いてもこのドラマは7割程度しか楽しめないからだ。だからこそジッと画面を観ると、そこには多くのモノローグ以上に多くを語る岡田将生の表情と、切なさと朗らかさを同居させた新垣結衣の繊細な演技がどっしりとドラマの幹となり鎮座している。あれよあれよと画面の魅力に引っ張られ、「この2人をずっと観ていたい」の中毒症状に陥る。
特に、更衣室で視覚的密室殺人が起こる第8話でそれを強く実感させられてしまった。この回は、ある意味仕切り直しかのように今日子さんと厄介の1日が描かれた。今日子さんが“初めて会う”厄介をどう感じるのかの感情の動き、“何度も会っているのに初対面”な厄介の今日子さんへの細やかで多少お節介が過ぎる言動。「また出会って、関わって、また忘れられる」。そんな関係性がルーチンになりつつも、それでも厄介の中では大事な1日であり、その想いが1日の最後の最後でほんの少しだけ今日子さんに届く。この改めて2人の関係性を描いた8話を観て、「あ、自分って思っていたよりはるかにこのドラマにハマってるんだな…」と痛感し、そして目の前にはもう最終回が迫っている。この時点でいわゆる「ロス」が殴ってくるもんだから、辛い。
最終回、絶対にやらないだろうと確信しつつ少しだけ心配していたのが、「今日子さんの記憶が“続く”」という展開。最終回なのだ。絆でも愛でも恋でも奇跡でも、「なぜか厄介さんのことだけは信頼できた…」「どうしてか厄介さんの名前は覚えていた…」なんて展開はいくらでもできる。できるのに、意地でもやらない。絶対にやらない。「今日子さんは眠ると記憶がリセットされる」。そのロジックに隙は無く、クライマックスだろうが奇跡なんて起こらない。ここが本当に偉いなあ、と。「描きたいこと」、そのテーマに関するプライドが絶対にブレない。今日しか続かない記憶だからこそそれは素晴らしく、儚く、哀しく、物語としては素晴らしい。
厄介からの返しのキスの長さと、「また一から口説いて下さいね」という今日子さんからのこの上ない殺し文句。それは奇跡なんて起こらず確実に記憶が消えるからこそ、大きな意味を持つのである。
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そうして次第に思考の深みに嵌っていくと、自分だって昨日の自分と同じだとは断言できないのかもしれない、などと考え出してしまう。そりゃあ、今日子さんと違って昨日の記憶はあるけども、今日誰かと交わした会話は昨日とは違うし、目にする景色も絶対に同一ではない。通勤通学で決まって歩く道の脇にある田んぼも、気付かないだけでその稲穂は毎日姿を変えている。感じ方も毎日違うし、今こうやって書いているこのドラマに関する感想も、例えば今夜嫁さんと交わした会話によっては印象が変わってくるかもしれない。明日にでも全く違った見方をする感想と出会うかもしれない。
そう考え出すと、昨日と今日の自分を繋ぐ一本筋というのは、えらくふわふわした物にも思えてくる。物理的なことを言えば、細胞だって毎日膨大な数が死んでは生まれていく。昨日と同じ自分は、そこにどれだけ残っているのか。だからこそ、「誰かによる自分」という客観的な視点や事実が結局はその一本筋なのかもしれないし、例えば家族・恋人・友人といった知人みんなと関わることで、やっとこさ昨日の自分と今日の自分が同一になっていくのかもしれない。「自分」というのは、結局は無数の「他者から見たその人」の集合体ではないだろうか。戸籍から何から、結局は「承認」の蓄積である。
強めのデフォルメとフィクションラインによって縁遠く感じるかもしれないが、もしかしたら今日子さんの記憶がリセットされる設定は、ものすごく身近で概念的なもので、私たちもご多分に漏れず「自分だけの(自分を強く覚えてくれている存在である)隠舘厄介」を求めているのかもしれない …などと柄にもなくセンチな気分になってしまうほどに、このドラマによる喪失感は大きい。続編という形であの2人の“今日”がまた観られる日を願って、今夜も「明日の自分」が「今日の自分」とイコールだという保証はどこにもないのに、すごすごと眠りにつくのだろう…。
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