こんにちは、YU@K(@slinky_dog_s11)です。
何度目にしても「怒りのデス・ロード」という副題は面白い。そもそもこの単語の羅列だけでは映画の内容がさっぱり分からない。しかし、強い感情を表す“怒”の文字と、死を意味する“デス”、そしてそれらが“ロード”で紡がれるという、実際に作品を観た後だとこの上なくドンピシャに思えてくる独特のセンスだ。ガソリンと汗と砂の香りが副題からプンプン臭ってくる。実際にはこれに血と脳漿と銀スプレーもプラスなのだけど、本当に色んなものがプンプン臭ってくるのにあり得ないほどに交通整理が行き届いた映画だったなあ、と。
「マッドマックス」シリーズ第4弾「怒りのデス・ロード」。観たことが無い人にはもはや順序が逆だが「北斗の拳っぽい世界観」と伝えた方が分かりやすい異常に荒廃した世界で、そこを支配する存在とそれに反撃の狼煙をあげる存在が火花を散らしながらカーチェイスをする“だけ”の映画だ。この“だけ”というのは非常に面白い部分で、(この映画に限っての)同義語で「ヒャッハーするだけの映画」という評し方がある。
「ただ単にカーチェイスするだけ」「観ている側が頭を空っぽにしてヒャッハーできる映画」。こういう字面を見るとどうしても「細けぇ辻褄とかはどうでもいい!最高に盛り上がる映画!」というボンクラ映画なニュアンスを感じがちだが、この「怒りのデス・ロード」はそれらとは確実に一線を画している。そしてその「一線を画すっぷり」は、後にアカデミー賞での6部門受賞までもを達成。この記事では、作品内に積み上げられた美麗な数式をひたすらに分解し、私なりに「いかに計算されたヒャッハーか」というポイントを読みほぐしてみたい。
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核戦争により荒廃した世界で砦(シタデル)を支配する存在、イモータン・ジョー。彼が従える武装勢力に囚われた元警官のマックスは、過去に救えなかった存在への後悔とジレンマに悩まされていた。そんな折、武装勢力の大隊長フュリオサはイモータン・ジョーに反旗を翻し、彼の女たちごと砦からの逃亡を図る。執拗な追撃を加える武装集団ウォーボーイズに“輸血袋”として扱われていたマックスだったが、乱戦の末にフュリオサたちと行動を共にすることになる。果たして、目指す緑の大地に無事辿り着くことはできるのか?
改めてあらすじを最低限だけ並べただけでも色々と血圧の高そうな単語ばかりが並んでしまい面白いのだけど、要はよくある“支配からの脱却と反抗”パターンである。レジスタンスと言えば聞こえは良いが戦力的には圧倒的に不利なフュリオサ一行が、イモータンの軍勢といかに渡り合うのか。そして、長距離カーチェイスは目的地で折り返してまたもや乱戦に次ぐ乱戦。この映画の総走行距離は果たしてどれくらいなのかと思わず白目を剥いてしまう。
“支配からの脱却と反抗”を効率よく描くためにまず必要なのは、その“支配”がいかに圧倒的にその世界に根付いているか、という描写である。その点で、この映画の開始からわずか15分ほどは非常にロジカルに構成されている。まず冒頭のモノローグでかなり“ざっくりと”核戦争やらの背景が語られ、つまりは「めっちゃ荒廃してて無法地帯ですから!」というルール説明のためなのだが、その“ざっくり”具合と割り切りがまた非常に面白い。「あ、このくらいのフィクションラインで観ればいいのか」という目線の準備運動をさせてくれる。そして、汚染されていることが一発で目視できる双頭のトカゲ。薄汚れた車とその傍に佇む男、広がるオレンジ色の大地と渇いた空気感。もうここまでのビジュアルで一発ガツンと、「こういう映画だから!!」が伝わってくるのだ。ほんの、ものの開始1分そこらである。
その後、マックスがウォーボーイズに囚われるシーン。理由も勧告もなく問答無用で襲撃され、最初からいきなりド派手に車が横転する。そういう倫理観がまかり通る世界なんだと痛感させられながら、マックスは砦に連行されていく。焼印を押されながらも逃亡を図るマックスだったが、数の利には敵わない。ここの追っかけっこで、砦の構造や中の風景が画面の端々で描写され、更には高所で物理的に“砦”であることが分かるようにもなっている。マックスが危うく落下しそうになるほどの高低差をしっかり見せた後に、イモータンがその高低差を利用して水を撒き、自らの支配を盛大に誇示する。ここが非常に巧い。水に群がる貧相な群衆たちのはるか上でほくそ笑むイモータンは、その直後に自分だけのテリトリーであるこの上なく青々と茂った緑の中を歩く。不恰好に水を求める人がいれば、こんなにも茂った緑を有する存在もいる。圧倒的な支配階級がそこで描かれていく。
また、この開始15分の間に数回もマックスの脳内フラッシュバックのシーンが挿入されている。次第にその詳細が明らかになりそうで …ならない塩梅なのだけど、「彼の目の前で幼い命が消えた」「彼はそれを阻止できなかった」「救えなかった」「そしてそれを非常に後悔している」というニュアンスだけはビンビン伝わってくる構成だ。ここまでで、「圧倒的な支配を行うイモータン」と「誰かを救えなかった苦しみを抱えるマックス」が示され、観客は無意識に「じゃあこの映画はマックスがイモータンの支配に苦しむ誰かを助ける物語なんだな」という上映時間120分における完璧な“心構え”ができるのだ。これがもう、本当に素晴らしい。
一切の過不足なく、ビジュアルとキャラクターの言動と演出をロジカルに組み上げ、観客に作品の醍醐味を漏らすことなく伝えている。カーチェイスが始まる前に、実はこの「怒りのデス・ロード」の物語は8割方完結しているのだ。そして、残り2割の“行って帰ってくる”がまたこの上なく面白いもんだから、観終ったあとの観客の満足度が盛大に膨れ上がっていく。
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先日家で改めてBlu-rayを鑑賞した際に壁にかけた時計と見比べながら楽しんだのだが、この作品は実はほぼ30分おきに起承転結が切り替わっていく。
マックスがフュリオサに出会うまで、そこから逃亡劇が始まり渓谷を抜けきるまで、夜のシーンになり砦に引き返すことを決めるまで、そしてクライマックス。この四部構成がほぼ30分単位に割り当てられており、同じような荒廃した地平の大地でも「砦の構造とサンドストーム」「渓谷」「夜」「全てを逆から辿った場合」とちゃんと味が変わるように組み上げられている。しかも、順に「マックス込みで結成されるフュリオサ一行」「ニュークスの加入」「最高ババア集団(鉄馬の女たち)加入」「次々と倒れていく仲間たち」と細かくメンバー編成が変わっており、「ただカーチェイスで行って帰ってくる」という単純かもしれないストーリーラインをいかに飽きさせずに観せるか、という部分は正直いくらでも紐解くことができる。
恐ろしいまでのロジカルパズルは全編に行き届いており、例えばマックスとフュリオサとニュークスの(序盤の)三つ巴のアクションシーンは本当に見事だ。「マックスとフュリオサは敵対関係にある」「ニュークスとマックスは利害一致の関係にある(繋がれている)」という状況を各人が瞬時に判断し、細かい一挙手一投足にまでそれが反映されている。銃を取った者勝ちの駆け引きやチェーンを使った位置関係の戦い、そして隙を見て参戦してくる子産み女たち(彼女たちも全編通して絶対に誰の足も引っ張らず、しかしピンチな時にはしっかりピンチになってくれる)。
敬意を持ってこの映画の登場人物は「馬鹿ばかり」だと断言したいが、それは何も字面だけのニュアンスではなく、「(置かれた状況において常に最善の言動をしっかり思考した末に選ぶことができるその思い切りの良さがいわゆる)馬鹿ばかり」なのだ。
また、渓谷でのフュリオサの取引シーンも面白い。「馬鹿野郎!と叫んだら教えた通りにエンジンをかけて走らせて」、そう言われたマックスは子産み女たちと運転室の床底に隠れる。緊迫したやり取りの末にフュリオサが「馬鹿野郎ッ!」と叫ぶと、その直後のカットではすでにマックスがエンジンをふかしてスタートさせている。ここで「マックスが床下から飛び出すシーン」も「マックスがスイッチを順番通りに押してエンジンを点火させるシーン」も、一切描かれない。それはもちろん、当然やっているのだが、あえてこれらを省くことでマックスの反射神経と判断能力、フュリオサとすでに築かれつつあるタッグ感、そして何より逃走を図るというスピーディーな展開への一役を買っているのだ。編集の妙である。
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復路においては、やはり渓谷シーンでの一連のアクションが見所だ。それまでは一対多の車両が縦横無尽に絡み合う乱戦だったが、ここで道が狭くなり車両が縦列でしか走れなくなる。それによって、横から上から攻めてくる敵がただ“前後”に限定され、さらには車を近づければ互いに乗り移ることができるようになる。それまでは飛び道具がメインだったのに対し、ここからいきなり肉体同士の近接戦闘が、それも走行中の車の上で行われる。同じ「走りながらの乱戦」でも、こうやって舞台装置を少しずつ変えてあるのだ。そうして、“前後”、縦列でいくと“縦”の構造で争うことになる。自身の傷をかばいながら躍進するフュリオサ、嘘の助けを求めて敵の車に飛び乗る子産み女、そしてマックスはその更に後ろから援軍&遊撃隊として活躍する。
「この人とこの人の位置関係はこれなので、この攻撃が有効」「この人はこの相手には危害を加えることができない」。そういった乱戦ならではの互いの条件が一々歯車として噛み合うのが非常に痛快であり、前述の「マックスとニュークスとフュリオサの三つ巴の戦い」にも似たロジックバトルが繰り広げられる。最後に、反旗を翻した旗頭であるフュリオサがしっかりイモータン・ジョーを倒し(しかも印象的だったイモータンのマスクにこれまた印象的だった自らの義手を引っかけて道連れにして殺害、というこの組み合わせが最高である)、更にはニュークスの「俺を見ろ」からの命を犠牲にした転倒で渓谷を塞ぐ。言うまでもなく「俺を見ろ」は彼がイモータンへの盲信ぶりを発揮する時に叫んでいた台詞であるが、ここではその盲信から脱却した一人の男として、女に向かってこの言葉を放ち、散っていくのである。なんと気の利いた構成だろうか。
このように、「後の展開」を活かすために呼応する要素をしっかり配置しているのも素晴らしい。「俺を見ろ」はもちろんのこと、マックスがフュリオサに名を名乗るくだりであったり、彼が輸血袋として強制的に抜かれていた血が最終的に戦友の命を救う展開であったり、「後の展開」のための逆算ともいえる種蒔きがとにかく秀逸である。と同時に遊び心的な要素も多く、「棒高跳びで襲ってくる敵勢力」「走行中に前方で土を巻き上げて消化する」「ガソリン吹きかけ選手権」「ババア大活躍」など、ワンポイントで「うお!すごいなこれ!」と良い意味での半笑いが起きる要素が随所に散りばめられている。これにより、がっしりとした土台の上で観ている側の感情が小さく(しかし深く)起伏していくのだ。
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つまり簡単にまとめると、「怒りのデス・ロード」はこのように組み上がっているのではないか。
・まず開始15分で物語の本筋を明らかにし、世界観を余すことなく提示する
・起承転結がほぼ等間隔の尺で進行する
・4つの場面で舞台やメンバーがしっかり異なる
・全ての登場人物がちゃんと考えた上で馬鹿をやる
・必要最低限のカット割りでスピード感を演出する
・乱戦に位置関係のバリエーションを持たせる
・呼応する要素を全編を通して多数配置する
・遊び心の要素を全編にバランスよく散りばめる
なんという緻密なパズル。恐ろしいほどに繊細である。そして何より素晴らしいのが、これらを全て積み上げた末の最終的な“見え”が「ただ単にカーチェイスするだけ」「観ている側が頭を空っぽにしてヒャッハーできる映画」に仕上がっていることだ。地面の底ではものすごい基礎工事が組み合わさっていて、その最後にコンクリートを綺麗に敷く。そんな完璧に出来上がってコンクリもまだ黒いままの道路を、我々は裸足のまま、全裸のまま、両手を挙げて馬鹿になって心から全力疾走することができる。それを「どうぞ全力疾走してね」と促してくれる。観ている側が安心して馬鹿になることができるように、神経質なまでのお膳立てがされているのだ。
…という意味で、書き出しで「それらとは確実に一線を画している」という表現を用いた。“見え”だけならいくらでも簡単で単純な作りだと言えてしまうかもしれないが、実は私のこのレビューもまだまだ序の口で一部分に過ぎない。元ネタとされている世界各地の英雄神話の応用であったり、常に緊迫感と重厚感のある音楽の使い方であったり、“綺麗な汚し”と世界観への説得力に満ちた衣装や美術など、分解して読み解けば一晩では終わらないだろう。そんな“とことん読みほぐしがいのあるヒャッハー映画”として、「マッドマックス 怒りのデス・ロード」は日本国内において2015年随一のカルト人気を獲得したのである。
日本ではどうしてもボンクラ的な熱量で語られ、ひたすらに祭られた向きが強かったが(とはいえあまりにも局地的ではあったが)、後に賞レースでも大活躍したところを見ると、やはり「ヒャッハーだけじゃない」、神経質なまでの組み上げ方が大きな特色だったな、と強く思えてくる。むしろ、だったからこそ息長くいくらでも盛り上がることが出来たという意味で、これまた稀有な作品だと唸らされるばかりである。
※この記事は、2015年末に公開した無料電子書籍『THE BEST』収録記事をアカデミー賞最多部門受賞記念にリライトし、サンプル版から全体公開に変更したものです。
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【過去記事】
・映画好き1,800人が答えた「おすすめの映画教えて」の切り抜け方
・Twitterネタバレ問題&マナー論争最終決着論。唯一の解決案「自衛」と伏字回避の有効性について
・元保険屋が真面目に怪獣保険について考えたら保険料は年間8,150円という計算になった
・「別冊映画秘宝 特撮秘宝 vol.3」に「ウルトラマンネクサス」「ウルトラマンX」の作品解説を寄稿しました