こんにちは、YU@K(@slinky_dog_s11)です。
どうしても外せない仕事の都合で公開日に駆けつけることが出来ず、ネットを含む全ての情報をシャットアウトして、翌朝一番に劇場に乗り込み、終了後すぐに午後一番の回の座席チケットを発券し、帰宅してからはサントラを流しながらパンフやムック本を読み漁り、そうして少しずつ、自分の中にやっとこさ馴染んできたような気がする。12年ぶりの国産ゴジラ映画こと、『シン・ゴジラ』。何から語れば良いのか皆目見当がつかないくらいにビビッドな作品だったが、ひとつずつ、この映画の“角度”に向き合っていきたい。
※以下、本作のネタバレがあります。
◆「シン」、24連発
まずはベタに、タイトルにてあえて片仮名で記された「シン」の解釈について、思うままに書き並べてみようと思う。それがつまり、前述の“角度”を列挙する作業になるだろうから。
「真」…言うまでもなく、「真のゴジラ」の意。本作がなぜ「真のゴジラ」なのかについては、考察を後述。
「神」…まさに神のごとき“人智の超えっぷり”であったし、圧倒的に話の通じないヤツだったことは間違いない。これを神の断罪と取るか否かは、解釈が分かれるか。
「震」…これまた言うまでもなく、東日本大震災を経験した今の日本に響く文字。押し寄せる濁流から逃げる人々を捉えたのは、嫌らしいくらいにストレートであった。
「信」…未曾有の大災害ことゴジラに対し、迎え撃つは日本人の「信念」。そして、「私は部下の報告を信じるだけです」が印象的。
「進」…ビルをなぎ倒して進む様は、まさに「進撃」。樋口監督のクレジットも含めて。
「親」…「肉親」という意味では石原さとみの役どころが印象深く、また、あのゴジラのちぎれた破片が後に“子ゴジラ”に変態&増殖するかもしれない恐怖感もあった。
「審」…「審判」と書くと前述の「神」にも通ずるが、行方不明となった教授のエゴ的な解釈を「審判」と取るか否か。
「伸」…スクラップ&ビルド、日本はどんな窮地からもまた「伸びる」ことができる。ついでに、ゴジラの腕も変態と同時に「伸びる」。
「芯」…決してブレない「芯」こそが、「諦めず、最後までこの国を見捨てずにやろう」なのだ。
「深」…「意味深」に徹したのは例の教授であり、彼の最期(?)は結局明かされないままであった。
「紳」…どんな窮地でも、あくまで「紳士的」に。「矢口、まずは君が落ち着け」。
「寝」…「寝」ずに頑張った日本人と、「寝」て力を溜め込むゴジラ。
「辛」…言うまでもなく、「辛い」出来事であった。
「侵」…日本人が築き上げた文化を盛大に「侵された」のは間違いない。
「津」…「震」と同じく、こちらも先の震災を思わせる解釈。
「森」…印象的なのは、ゴジラ第四形態出現時。手前に青々と茂る木々の群れ。
「唇」…石原さとみの印象的な「唇」、というのは少々無理があるか。
「沈」…「沈黙」するゴジラと、それを許されなかった日本人。
「針」…まさに「針」のごとき熱戦攻撃。多数の“ハリセンボン”が米軍機を焼き払う。
「請」…「請う」たのは、核使用カウントダウンの延長。総理代理、渾身のお辞儀。
「診」…「診察」なんて、当然のごとく受けられない。「医療品はどこも品切れ」。
「浸」…海底トンネルへの「浸水」が全ての幕開けであった。
「臣」…「大臣」の奮闘、そして数多の死。
「新」…今作のゴジラは、完全なる「新しいゴジラ」であった。「真」と並び、こちらも後述。
…などなど、酷いこじつけも含めて、思いつくのは取りあえずこんなところだろうか。こういう考察遊びを提供してくれる、面白いタイトルだと思う。
◆巨大ラブカが体現する「真のゴジラ」
本作を鑑賞した人の多くが目を丸くした、ゴジラ第二形態。「ゴジラはいつもあのゴジラの姿で登場する」という我々の先入観を引っ叩くかのような展開に、もう少しで「えっ?」と声が漏れるところだった。その数分前の第一形態の尾からして「あれ、少し予告で観たのと質感が違うような…」と思いつつ(水しぶきで誤魔化しているのがまた上手い)、そして市街地に入ってからは「背びれは分かるが事前情報とサイズ感が違うぞ…」となり、そしてドーンとあの丸い目のヤツが登場してしまった。
一瞬で頭がグルグルし、「あれ、こいつはまさかVS怪獣?」「それともゴジラの子供?こいつを殺されて怒って来るのか?」「それとも捕食対象?」と選択肢を挙げては潰し、そうして「あ、違う、こいつが間違いなくシン・ゴジラだ」と思考が間に合ったタイミングで、気持ち悪いアイツは立ち上がりを見せた。
パンフレットにも記されているように、イメージとしてサメの一種である「ラブカ」という生物が使われている。改めて見てみると、丸々した眼やエラの形状など、確かにそっくりそのままである。
▲バンダイ商品ページより
全く不謹慎な話だが、太平洋岸に生息するラブカが巨大化して東京を襲うという妄想をしてしまった。ゴジラの原作者の香山滋の遺作『ガブラ 海は狂っている』は、公害で怪物化したジンベイザメだった。 pic.twitter.com/afH8QQ5fvp
— Pio (@pioilbevitore) 2014年3月9日▲余談だが、Twitterで検索してみると2014年の時点でこんなツイートをしている人がいた…。あなたが預言者か…。
この第二形態ショックは、確かにゴジラファンであればあるほど度肝を抜かれる作劇であり、多くのファンが口をあんぐり開けてしまったことだろう。しかしこれは同時に、本作最大の肝というか、ゴジラそのものの定義に干渉する仕掛けとして機能している。つまりは、今や国民的スターと言ってしまっても過言ではないゴジラというキャラクターについて、シリーズのファンでなくとも、皆が皆、何かしらの「イメージ」を持っているのが現状だ。ゴジラは戦争や核のメタファーか、怪獣プロレスの担い手か、災害か、ヒーローか、ヒールか、怨念か、怪獣王か。そういった無数の人が持つ「既存のゴジラのイメージ」を、第二形態の登場で一気に白紙にする。「なんなんだこいつは!?」という、驚きと戸惑いに、強制的に統一してしまう。
そうすることで、偉大なる一作目の『ゴジラ』同様、我々は“これまで観たことのない巨大な生物”と対面することが出来るし、矢口をはじめとする登場人物たちの戸惑いと共通項を持つことができる。雑誌のインタビューにて樋口監督は「これまでのゴジラ映画は一作目の『ゴジラ』に囚われすぎていた」という旨を述べていたが、つまりは「ゴジラという生物が存在すること」が、作り手・観客・作中登場人物の多くの中で“前提”になってしまっていた。それほど、初代『ゴジラ』が偉大であり、“くさび”でもあったのだろう。
だからこそ、12年ぶりに新しいゴジラを創造するにあたり、既存のゴジラ像をなんとしても破壊する必要があった。「これまでのゴジラ」が持っていた“くさび”こそが、シリーズを12年も中断に導いてしまったかもしれない要因だからだ。ゴジラが、“ゴジラを逸した姿”で登場する。言ってしまえば、たったこれだけで、既存のゴジラのイメージを白紙に戻すことが出来るのだ。とはいえ、生理的な「キモさ」を持ち合わせるあの姿にゴジラを「貶める」(あえてこう書く)というジャッジは、言うまでもなくゴジラを愛好するであろう庵野総監督&樋口監督にとって、心からの挑戦だったのだと察したい。
加えて、我々は自然と、矢口たち登場人物と同じ高さの視点を獲得する。これまでのゴジラ映画では「ゴジラが出てきた、さあどうする」という“シリーズを知っているからこその神の視点”で登場人物たちを(無意識に)見下ろしていたが、本作では巨大ラブカショックによりそれが撤廃され、彼らと同じ「困惑」に浸ることができた。だからこそ、彼らの家族構成やバックボーンをほとんど知らなくとも、心から応援し一緒に何とかしたいという気になるし、自衛隊をモノともしないゴジラに根元的な恐怖心を抱くことができる。過去のゴジラが熱線を吐けば「キターー!!」だったが、本作では矢口同様に「おいおいおい、もうやめてくれ…マジでやめてくれ…」と祈るような表情で顔を引きつらせることが出来る。
重ね重ね、言ってしまえばひとつのアイデアだけ、「ゴジラを“進化前”から登場させる」、これだけである。しかし、このワンアイデアだけで、初代『ゴジラ』がもたらす未知の衝撃を60年以上もの未来で再現し、観客の既存のイメージを白紙にし、シリーズが中断したかもしれない要因を洗い出し、観客に登場人物たちと同じ高さの視点を持たせ、人間ドラマを排除しての「対、不明生物」に絞った作劇に説得力を持たせることを可能にした。ただの「騙しの手品」に過ぎない、大きな大きなワンアイデアである。所見時はこのインパクトに思考回路がやられてしまったが、二度目の鑑賞でその計算されたトリックを堪能することができた。
よもや、ゴジラに「キモい」という感想を抱くことになろうとは…。
◆CGで表現される「新しいゴジラ」
方々のインタビューを読んでいると、割と早い段階から「新しいゴジラはCGでいこう」ということでスンナリ決まっていたようだ。新しいゴジラが着ぐるみかCGかはここ数年の特撮オタク間にて絶えない論争ではあったが、特撮博物館を手掛けたペアだからこそのジャッジと言うべきか、CGが採択されている。というのも、(ここからは私の持論だが)、そもそもの話として着ぐるみとCG、もっと言えば、特撮とCGが対立構造で語られること自体がおかしい話であり、「特殊撮影」の定義に立ち返るなら、CGはそこに内包される単なる一手段であるのだと主張したい。
ただ、同時に、別に老害じみた「着ぐるみの温かみが~」という文言を使うつもりはないが、実際の文化として『ゴジラ』や『ウルトラマン』シリーズで旧来から採択されてきた「着ぐるみ&ミニチュア」という一手段の息が長かったために、言語上の定義ではなくひとつの文化として、「着ぐるみ&ミニチュア」を「特撮」と解釈できる土壌は、確かに存在するのだと思う。後発の手段として出てきたのがCGなので、結果的に一部では対立構造のように語られる、と。それをあえて「特撮」ではなく「とくさつ」と便宜上表記するのならば、「特撮とCGの対立」は無くとも、「とくさつとCGの対立」構図は必ずしも“無”ではないのではないだろうか。単純に、「どちらの手段が好きか」という好みベースの対立であり、それは「きのこの山とたけのこの里のどちらが好きか」と同じ次元の話である。
本作に関するいくつかのインタビューを読むと、「着ぐるみ特撮は、一種やり尽くした」というニュアンスで語られている場面がある。『ゴジラ FINAL WARS』から12年、CGという手段があの頃とは比較にならないほど進歩した今、果たして改めて「着ぐるみ」という手段を採択する意義はあるのか。「とくさつ」という方向性では意義があっても、「特撮」の根元的なベクトルにおいて「とくさつ」を“また”推し進める必要はどこまであるのか。12年という月日の中で、観客の眼は肥え、外国産のCGによるゴジラが日本でもある程度ヒットしてまだ日の浅いこのタイミングで、果たして「とくさつ」か、「特撮」か。「やり尽くした」のは、果たして作り手だけの問題なのか、観客が求める“画”も込みの話なのか。
そういう、クッッッソ面倒くさいオタクトークはいくらでも繰り広げられるのだけど、結論として、今回の『シン・ゴジラ』ではモーションキャプチャーを含めたCGが採択されている。だからこそ第二形態にあれだけおぞましく気持ち悪い動きを持たせることも出来たのだろうし、背びれを5本並べることも出来たのだ(通常ゴジラの背びれは3本だがそれは着ぐるみのチャックの関係で、CGでやるなら関係ないと樋口監督が東宝と交渉を重ねたとのこと)。CGでやるからこそ下顎も割れるし、何よりこれまでの着ぐるみでは実現不可能だったアングルも多用されている。ただCGを採択しただけではなく、CGだからこその旨味や面白さを追求した“新しいゴジラ”に仕上がっていた。
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もっと言うと、(これは私自身も「とくさつ」が好きな一人であると表明し唇を噛みしめながら言うのだけど)、この2016年に「着ぐるみとミニチュア」でゴジラをやったとして、どれだけ一般のお客さんが“こちら”を向いてくれるかといったら、かなり厳しいと思うのだ。これはもう、どうしようもなく、正直な感想として。だからこそ、“そうでない”手法を今このタイミングで選んでおくことが、「とくさつ」ではなく、「特撮」を永く生きながらえさせるための唯一無二のジャッジだったのかもしれない。そうであるとするならば、本当に難しいのは、この『シン・ゴジラ』に続く「ネクスト・ゴジラ」なのだ。
◆ゴジラに見る「スター・ウォーズ」の影
製作期間を考えると単なる偶然の産物だとは思うが、私が『シン・ゴジラ』を観た直後に思い起こした映画は、昨年末に公開された『スター・ウォーズ / フォースの覚醒』であった。どちらも「長い時を経て新作と相成った大御所シリーズ」という恰好だが、成果物としても、「多少過剰なまでのシリーズファンサービスがありながらも、それに頼りすぎず新しい魅力を打ち出す」というバランスになっていて、海を越えてのクリエイターたちの答えの出し方に非常に興味深いものを感じた。
どちらも、そもそも「製作する」という事実だけで、ファンの間では論争が起きるレベルのシリーズだ。そうして、「どうせなら作らないでくれ」というまたもやクッソ面倒臭いオタク心理もありながら、同時に、「でもいざ作るんなら観ない訳にはいかない」訳で、期待と不安に押しつぶされながら、届く情報に逐一一喜一憂して公開日を迎える類の話だ。もちろん、ゴジラとスター・ウォーズでは規模は違うが、そういう“愛ゆえの面倒臭さ”を内包する2つのシリーズが、この約半年のスパンでそれぞれ新作を公開し、同じような答えを持って形作られているのは、とても面白く感じないだろうか。
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『シン・ゴジラ』は、前述のように初代『ゴジラ』から脈々と続いてきた“くさび”を解放しつつも、同時に、この上なく初代へのリスペクトを掲げている。それはもう、特濃つゆだくである。使用劇伴は言わずもがな、数々の演出や、造形ひとつ取ってもそれを感じることができる。かといってただそれだけに終わるのではなく、それもありつつも、新しいゴジラ。CGもそうだし、第二形態や第三形態といった変態要素も含め、そしてまさにエヴァの使途のようにファンタジックに東京を火の海にしてしまう様は、誰もが知っているゴジラのイメージとは全く異なるものであった。
本作は、前半がリアルシミュレーションとしての巨大生物との対応を描きながら、東京が火の海と化す中盤の“シンゴジ大暴れ”あたりから、いつの間にかリアリティラインがフィクション側にずれ込んでいくような感覚がある。とはいえ、ああいう生物と人智を超えた大暴れこそが“くさび”を外すひとつの方法論であり、ここまできたら我々は彼らの行く末を固唾を飲んで見守るしかない訳で、仮にリアリティラインが多少ずれようとも、すでに惹きこんでしまえば全く問題ナシなのだ。
そういう面は本当にロジカルに組まれていると思うし、序盤の衝撃の第二形態披露と中盤のビーム熱線初披露でそれぞれ予告で使われていた「Persecution of the masses (1172)/上陸」「Who will know (24_bigslow)/悲劇」を流したりと、観客が覚える盛り上がりポイントをしっかり計算して造っていると強く感じることが出来る。予告で流れたテーマが、ちゃんと見せ場で流れるのだ。ベタながら、王道の組み立てである。
そういう「観客の盛り上がりをちゃんと計算して誘導する」という意味ではこれまた『スター・ウォーズ / フォースの覚醒』にも見られた方法論であり、ファンを満足させながら、シリーズ初見&一般客の鑑賞にも耐えうるバランスに調整し、それでいて、どこまでいっても「純なエンターテインメント」という殻をしっかり被っているからこそ、素晴らしい。『シン・ゴジラ』は『フォースの覚醒』に比べたら監督色が割かし濃く映っているけれども、それでも、私は自信を持って「ゴジラもエヴァも何も知らない人にこそ観て欲しい」と勧めることが出来る。これらの映画の作り方は、長期シリーズリバイバルにおいての一種の模範解答として、ケース登録できてしまうのではないだろうか。(加えて、『ジュラシック・ワールド』にも近いことが言えるだろう)
◆どこまでも愚直に、「がんばろう日本」
庵野総監督は、常人のそれとは色々と違う。めちゃくちゃに極端な例を挙げれば、私を含め、その辺の人にあのエヴァは造れないだろうから。そういう才を持ったクリエイターが、カットひとつひとつに病的なまでにこだわって作ったこの『シン・ゴジラ』において、その演出意図を秒単位で読み解く楽しさはあれど、ひとつだけ、馬鹿正直にストレートに“置いた”ポイントがある。それは、つまる所「がんばろう日本」に帰結するテーマ性だ。
本作は、ゴジラという未曾有の大災害が襲来し、それに翻弄されつつも対抗する日本人の維持とパワーを見せつける構図になっている。仮に作り手の全員が否定したとしても、今このタイミングで観るそれは明らかに東日本大震災を経験した日本のイマと重ねざるを得ないし、そこから立ち上がってきた日本人を賛美する意図が無いとは決して言い切ることが出来ないだろう。「スクラップ&ビルド」とは劇中の言葉だが、まさに文字通りのビルドを重ねてきた2016年現在の日本。その環境下で、ゴジラに対しては法が整備されておらず、想定もしておらず、火器は通用せず、それでも「もがき」、我らが日本を“最後まで諦めず見捨てない”その姿は、「ど」が100個はつく程に「どストレート」に、響く。
特に序盤の政治家たちの判断は結果だけ見れば役に立っていないが、「なぜ役に立たないか」が徹底的な取材の上で描写されている。決定機関があり、決裁者があり、自衛隊の目的があり、日本人としての優しさからくる甘さや、時に希望的すぎる楽観論が飛び交う。それは、ストロングポイントにもウィークポイントにもどこまでいっても正直すぎる「日本人」で、縮小図として私の職場で見かけてしまう光景ですらある。だからこそ、「ああ、日本人だなあ」と、時に胃を痛めながら、それでも頷きながら、そうして次第に、ただ純粋に主人公・矢口を応援したくなる。彼が、日本人としての弱さと信念を“後者寄り”で併せ持つキャラクターにチューニングされているからだ。
そりゃあ、上手くいかない時の方が多い。持論を述べれば空気を読めとたしなめられ、ズバっと決定してくれない上司に憤り、睡眠時間を削ってでも奮闘するのはいつも現場だったりする。別に残業が美徳だなんて言わないが、そういう、良くも悪くも「日本人しぐさ」に溢れたキャラクターたちが、「日本サイコ~」でも「これだから日本人は…」でもなく、「そうだよな、日本人、頑張れるよな」という純なる応援歌なニュアンスに着地する。常人を逸したセンスを振るう庵野総監督が、何よりも常人に寄り添ったテーマを正直に力強く打ち出す。ここだけは、斜め上も捻りもトリックも騙しも、何もない。ベタに、真っすぐに、ひとつずつ、確実に。だからこそ、後から後からこのテーマこそが響いてくる。
もはや、あえて言うならば耳にタコが出来るかもしれない「がんばろう日本」というスローガンが、あろうことか“くさび”を切り離したゴジラにて、痛感させられる。ゴジラは誰よりも“主演”のはずなのに、私にはむしろこんなにも「ゴジラに主役っぽさが無いゴジラ映画」を始めて観た気がする。だって、間違いなく頑張っていたから。我々と同じ日本人が、我々と同じように頑張っていたから。どうしようもなく愚直なこの描き方が、『シン・ゴジラ』の真骨頂であり、だからこそエンターテインメントに溢れた一作だと主張したいのである。ゴジラだの特撮だのエヴァだのを超えた普遍的なエンタメ性が、確実に“ここ”にある。
そうして、あれだけ観る前までは「ゴジラ~エヴァ~特撮~着ぐるみ~CG~」と面倒な渦にハマっていたのに、鑑賞後は一瞬“そんなの”が綺麗に飛んでしまっていた。作品そのものに、そういった舞台装置を視界から外すパワーがあった。「うわあ、すごいもん観たな」、と。ゴジラの定義論なんてのは、すっかり頭から抜け落ちてしまうのだ。
つくづく、ゴジラが“ゴジラ”を逸したのだと、気付かされる。そして、それがどれほど難しいことだったかは、それこそゴジラゴジラうるさかった我々特撮オタクこそが知っていたはずなのに。これまでのゴジラ映画で幾度となく感じた「がんばろうゴジラ」は、本作では一秒たりともよぎらなかった。
◆消えた教授の謎とラストの尾が示唆するもの
本作の主テーマについて持論を語り終えたところで、最後に、まさに考察しがいのある数点について触れておきたい。
ひとつは、今回のゴジラの出現を予見していた牧教授に関して。彼が失踪したポイントとゴジラ第一形態が突如して現れた地点はほぼ同一と推測され、明かされた彼の私怨を考えるに、彼こそがゴジラの正体だったのではないか、と考えることもできる。が、完全にラブカじみた水棲生物の第二形態、そして、諸悪の根源とされる核廃棄物にはしっかりと歯形がついていたことから、教授がゴジラだというオカルト的な解釈は、個人的には難しいと思っている。あえて言うならば、ゴジラは牧教授を後天的に取り込んだからこそ、直立二足歩行のDNAをその身に有した“レベル”が関の山ではないだろうか。(教授はそれを目的として身を投げたという解釈も出来る)
もうひとつは、ラストカットのゴジラの尾について。明らかにそれと分かる人型が成型されており、それは前述のように牧教授を取り込んだからか、はたまた、完全生命体と称されるゴジラの進化の行く末が遂にヒト(またはそれに類する新たな生態系)にまで達する寸前だったのか、それは定かではない。頭部の形状が似ていることから同総監督・監督ペアが手掛けた『巨神兵東京に現わる』の前日譚とする解釈もネットには溢れているが、私個人にいたっては、それには否定派の立場を取りたい。理由は単純で、それでは「がんばった日本」な彼らが、報われないから。あそこまで愚直に描いたテーマ性とのバランスが、盛大に崩壊してしまう解釈にしか思えないのだ。むしろ、馬鹿みたいに深読みするならば、こうして「それじゃ報われないだろ」という反論をさせることでよりテーマを強く感じてもらうための、笑顔の悪戯だったのかもしれない。
どちらにせよ、牧教授も、ラストの尾も、具体的に議論できるほどの情報は(少なくとも劇中では)出そろっていない。あえて、そういう塩梅にしているようにも思えるし、つまりは『インセプション』の最後の駒と同じで、「いくらでも解釈遊びが出来るようにしておきました」以上の意図は、もしかしたら無いのではないか …とも思えてくる。とはいえ、この解釈議論にこそ面白さを感じるのがオタクなので、ネットに浮上する数多の解釈を私個人としても楽しんでいきたい。
総じて、つまりは、『シン・ゴジラ』は“面白かった”。端的にはもう、これに尽きる。過去のゴジラと一種の決別を果たしながら、それでも溢れんばかりのリスペクトを込め、シリーズが復活する意義も、今の日本人だからこそ描けるテーマも、「無人在来線爆弾」という今世紀最上級の燃え笑いも、解釈遊びも映像の新鮮さも、その全てをちゃんと満たしてみせた。こんなにオタク臭いのに、こんなにも普遍的だ。色んな意味で、多くの人にこの2016年がアニバーサリーイヤーになることを心から願って、公開期間中にあと何度か劇場に足を運びたい。
「シン・ゴジラ」のサントラを聴きながら仕事の企画書を作ってるんだけど、妙に捗りすぎてやばい。気合が入りすぎる。この企画に失敗したら国が終わりそうな危機感があるし、フォントは明朝体以外に選べなくなる。
— YU@K (@slinky_dog_s11) 2016年7月31日(関連記事)
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