Quantcast
Channel: YU@Kの不定期村
Viewing all articles
Browse latest Browse all 177

三谷幸喜ファンがネタバレ込みで「ギャラクシー街道」の地獄をとことん解説する

$
0
0



こんにちは、YU@K(@slinky_dog_s11)です。

三谷幸喜作品の大ファンとして今回も期待を寄せていた新作「ギャラクシー街道」。それを公開日初日に観てあまりにもあんまりだったのでその嘆きの感想をTwitterに連投したらそれがTogetterという形でめちゃくちゃ広まって色んな声が飛んで来ている状態なんですけども。はい。皆さんいかがお過ごしでしょうか。


「『ギャラクシー街道』は観るな」YU@Kさん深夜の慟哭(Togetter)


ここで「もうこの映画を観るな」と喚き散らしているのが私です。このまとめ記事に対して「まるでアイドルの熱愛が発覚した時のファンのようだ」「愛する人の醜態を晒したくないという思いでは」という意見があって、「あぁぁああぁぁぁ…」と膝から崩れ落ちそうな思いなんですけど、とにかく今は棚にある過去の三谷幸喜作品を視界に入れることもできないくらいにメンタルが弱まっていて、嫁さんとの些細な日常会話で幸せを噛みしめている現状です。

「三谷幸喜なんて前からダメだったろ」という意見も多くて、こんな状況でも「そんな悲しいこと言わんでおくれ…」と思ってしまう自分に自己嫌悪。いやね、そりゃそういう声は多かったけど、「清須会議」も「ステキな金縛り」も「ザ・マジックアワー」も大好きなんですよ、私は。もう何度観たことか。何度涙を流して笑ったことか。その私が「ギャラクシー街道」にワクワクで臨んで、上映時間110分の中でたった1回クスッと笑えたかどうか怪しいくらいの“戦績”だったんだから、もう悲しくて悲しくて…。その上“物語”としてもどこに着地するのか何がテーマなのか散らかり過ぎて意味が分からなくなっている。失望と怒りを何周すればいいんだと。





そんな状態で喚き散らした内容に色々な意見が飛んでくるのは当然の話なんだけど、ひとつだけ明確に「お前…!馬鹿野郎っ!」ってのがあって。それは、「そこまで言うならネタバレ気にせずひとつひとつ例を挙げて文句を言え。言っていることが抽象的過ぎて妥当なのか分からない」という意見。ほんっと…馬鹿野郎…っ!おい!いいか? 「私がこの映画についてどう思っているか・どう主張したいか」と、「ネットにおける作品のネタバレマナー問題」は、全く別の話だ。そこはむしろ混同しちゃダメだろ。「観た人の意見」と「作品の具体的な内容(ネタバレ)」は別の階層の話であって、そこをごっちゃにして無暗に当たり屋をするのは、少なくとも私の中では明確なレッドカードだ。

ネットにおけるネタバレ問題は基本的に自衛しか解決策が無いと思っているけど、だからといってやたらめったら当たり屋をして良い大義名分にもならない。しかもTwitterは自分の発言がどこの誰に届くか分からないのだから。とはいえ「妥当か否かが判断できない」の部分については確かにそのとおりなので、ネタバレの階層を分けることができるこの自分のブログで、お望みどおり語り倒してやりますよ。読みたい人だけ読んでください。


※以下、作品の具体的なネタバレがあります。
※前述のTogetterまとめの内容を踏まえたレビューになります。


改めて「ギャラクシー街道」の概要を説明すると、香取慎吾演じるノアが経営する宇宙のハンバーガーショップに色んなお客さんが訪れるグランドホテル方式のコメディ映画。次々訪れるお客さんに対して、ノアとその奥さんであるノエ(綾瀬はるか)が奔走するのが一応メインのストーリーラインで、しかもノアはノエの不倫を疑っている、というシーンから物語は幕を開ける。

まず一例を挙げる。このハンバーガー屋にレイ(優香)とその旦那であるババサヒブ(梶原善)が訪れる。…ってもう面倒臭いから役名じゃなくて俳優名で書くぞ。優香は実は香取慎吾の元カノで、久々に再開したらいつの間にか結婚していて、その旦那が梶原善だったという流れ。ここで香取慎吾が「どうも!」と挨拶をする。握手を求めて手を梶原善に差し出すが、梶原善はなんとアリクイのような長い舌をベロンと出して香取の顔を盛大に舐める。戸惑った香取が「こういう挨拶もあるんですね(あなたの星ではこのやり方が主流なんですね)」と取り繕うも、梶原善は真顔で「そんなことはない」と返す。「え?」と驚き、しかめ面の香取。





まずこのシーンなんですけど、多分「そんなことはない」の返しが笑う部分だとは思うんですよ。「挨拶でもないのに顔舐められたのかwww香取慎吾ww不憫だなwww」を、狙ったんじゃないかと。梶原善からすれば香取慎吾は奥さんの元カレな訳で、その説明は無かったけれど、仲が良さそうなふたりを見て面白くなかったのかもしれない。だから、香取の顔を舐める。あからさまに嫌がらせをする。そういう背景は分かる。が、梶原善が得意の仏頂面演技をするから、それが本当に嫌がらせなのか、何を思ってのことなのか、いまいち読めない。よって、画面ではただ「意味もなく汚く顔を舐める男と舐められる男」というシーンが展開される。

まずこの時点で私は「ど、どうしよう…もしやこれは笑うところだったのか…?」と戸惑いながら真顔で観ていたのだけど、問題は更にその後のシーン。綾瀬はるかがその輪に合流し、香取に紹介され、彼女もまた梶原善に挨拶をする。すると梶原善はまた舌を出してベロンっと綾瀬はるかの顔を舐め取る。彼女は驚くも、一生懸命自分も舌を出して舐め返そうとする。そこを香取が制止する。おそらくここも笑うシーン。綾瀬はるかの舌出し変顔は可愛いのだけど、そもそも梶原善がなぜ彼女の顔を舐めたかが真底意味不明で、頭を捻っているうちにそのシーンは終わってしまう。もちろん、梶原善に悪気のある表情は一切見られず、このキャラクターはその後も汚らしく不快感を与える言動ばかりを繰り返す。

梶原善の不快な言動は、例えば「香取慎吾の不憫さのための演出」「綾瀬はるかの変顔を引き出すための役割」、このような役目が次々と与えられ、後半に解説ポジションが割り当てられるまではずっとこの調子だ。しかし、あまりにもこれらの「役割のための役割」が強すぎて、梶原善自身が何を考えているのか・何を意図しているのか・どういう人物なのかが一向に見えてこない。「構造的な狙った笑いのために不快な言動をするキャラ」として終わっているので、その不快さには微塵も背景がない。だから、「え?なぜそんなことを?」と困惑している間に不快な言動だけが繰り広げられ、終わった後に「もしや今の“笑い”?」と戸惑う。観ていて、こういう心の動きが何度もあった。


※※※


コメディにおいて、倫理観が欠落していたり、不快だったりするキャラは、結構不可欠に近い要素だ。「このキャラは倫理観が全く無いな」は、ジャンル的に褒め言葉でもある。しかしそれは、それらが“笑い”に昇華されて初めてそう思えるのであって、そこに届かなければ、ただただ不快でしかない。三谷幸喜の近年の長編映画にも、倫理観が乏しく観ていて不快になるキャラクターは沢山出てきた。しかし、私から言わせればそれらはある程度ちゃんと“笑い”(または別の魅力)に繋がっていたから、一周してそのキャラ自体は「ほんとダメなやつだけど憎めないな」となっていた。今回の「ギャラクシー街道」は、あまりにも「役割のための役割」が色濃く出過ぎていて、“笑い”に繋がるのを邪魔してしまう。純粋に、行動原理が分からなく、“笑い”に届く前に不快感が勝ってしまう。

その「行動原理が分からない」も、一応の答えがある。それは「宇宙人だから」。宇宙人だから、倫理観は異なるし、価値観も、挨拶のひとつから違う。だからそれは違って当たり前なんだと。ロジックは分かる、分かるのだけど、それを頭で納得する前に生理的に不快感が先に出てしまう。例えば蜘蛛を目の前にして「そいつは益虫だから嫌わないでおくれ」と説明されても生理的に一歩引いてしまうようなものだ。梶原善に限らず、相手のことを一切考えず一方的に受精し妊娠する遠藤憲一や(いくら宇宙人によるギャグとはいえ少々常軌を逸している)、純粋に仕事が出来なさすぎてイライラしか沸かないパートの大竹しのぶ、存在自体がこの映画に必要なのか分からないデリヘル元締めの山本耕史に、そもそも主人公なのに客に対して偏見丸出しの香取慎吾と、その全員が「役割のための役割」だけを全うしていく。それが“笑い”に届く前に、地球人の倫理観では不快感がガツンと殴ってくる。





「宇宙人だから倫理観は異なる」と言うのなら、その異なる倫理観が誰かの助けになったり、道標になったり、未曾有の奇跡に繋がったり、最初は嫌いだった相手と相互理解に辿り着いたり、みんな違ってみんないい的な雰囲気になったり、そういうプロットがあるならまだ分かる。しかし、「異なる」という説明は「異なる」という説明でしかなく、それが不快感の免罪符になり得ると思っているのなら大間違いだ。栄養があると説明されても虫を食べるのは嫌なのだ。嫌なのに理由はない。生理的に不快だから嫌。それだけだ。

端的に言えば「パズルを組むこと自体に注力され過ぎている」というか、本来はその組み上がったパズルが“笑い”に届くからこそ意味があるのに、過程にあまりにも囚われているのだ。三谷幸喜の作品は割とこの傾向が強いが、今回の「ギャラクシー街道」はあまりにも度が過ぎている。しかも、パズルのそれぞれが「倫理観欠落」「不快」なのだから、たまったもんじゃない。





ペイントで下手なりに描いた絵で申し訳ないのだけど、三谷幸喜に限らず、コメディというのはおよそこういう作り方だと感じている。不運だったり、倫理観が無かったり、馬鹿や不快なキャラクターたちが(もちろん中には常識人もいる)、それぞれ単体では駄目でも、関わり合うことで“笑い”が生まれ、それをプロットや演出という巨大なスプーンですくい上げるから、結果的に不快なキャラたちが憎めなくなるという免罪符が与えられる。じゃあ「ギャラクシー街道」がどうだったかと言うと、それは次の図。





あまりにも役割的機能が強すぎて“笑い”に届かない結果(もうひとつ理由があるがそれは後述)、キャラクターたちの駄目さに免罪符が与えられないどころか、巨大なスプーンが盛大に空振りしているのだ。だから、「え?どういうこと?このキャラは何でこういうことをするの?何の意味があるの?」と困惑しながら、時々見え隠れする空振りスプーンを目にしてため息をつく。三谷幸喜のこのスプーンは毎度“ドヤ顔印のスプーン”で、それが上手く笑いをすくい上げていたとしても、鼻につく人が多いのは分かる(私はむしろこのバランスが好きなのだが)。だが今回はその“ドヤ顔印のスプーン”が空振りの連続なので、「白ける」を通り過ぎて「困惑」でしかない。やがてそれは「失望」と「怒り」に繋がっていく。負のスープの出来上がりだ。


※※※


じゃあ、決定的に何が駄目なのか。毎回割とそうなのに、なぜ今回はここまで「役割的な役割」が強く出てしまい、結果的に“笑い”に届いていないのか。過去の三谷幸喜長編映画と何が違うのか。それは答えから言うと、香取慎吾のノアというキャラクターだ。

このノアというキャラは、お話の序盤からかなり印象が悪い。香取慎吾が演じているのだから根は良い人なんだろうな、と思いたいものの、エピソードの数々がそれを許さない。まず始まってすぐに、怪しい行動が多い奥さんを不倫だと決めつける。まあここは男として気持ちは分かるのだけど、その後ショップに訪れた客に嫌な顔をし、綾瀬はるかを裏に呼び出して「帰ってもらえ」と指示する。客は西川貴教演じるカエル型宇宙人なのだけど、彼はそんじょそこらを水浸しにするから嫌なのだと。西川貴教がまた無垢に一生懸命ハンバーガーを注文し、結果として座席にブルーシートを敷かれても嫌な顔ひとつしないから、余計に香取の差別の目が色濃く映ってしまう。





優香に対してはもう結婚しているのにいつまでも元カレ面を絶やさず、「俺はお前に幸せになって欲しかったのに、(あの旦那相手じゃ)お前は幸せじゃない」と決めつけて説教までしてくる。優香が否定し「あの人(梶原善)はあの人で手がかかるけど私は幸せ」と主張するも、香取は譲らない。「いやいやいや、お前は幸せじゃない」と卑屈な文句をつけ続ける。また、(これは大竹しのぶのキャラも悪いのだけど)、パート店員に対してもかなりキツく当たり続けるし、仕事は基本他人任せで店主なのに停電の復旧作業程度しかやらないでサボってばかりだし、結局綾瀬はるかの不倫疑惑が何てことない勘違いだったと判明するラストでも、ひとりこそっと安堵するだけで感情の吐露も反省も全く無い。何も成長していない。何も変わらない。(正確には母星に戻らずもうちょっとハンバーガーショップを続けようと決意するのだが、あまりにも薄っぺらいドラマなだけに意味を成していない)

過去の三谷幸喜作品で挙げていくと、例えば「ラヂオの時間」では唐沢寿明のラジオに対する情熱が爆発していく流れは見物だし、「THE 有頂天ホテル」の役所広司は嘘をつけない嘘つきとしてその正直で不器用な面がチャーミングだし、「ザ・マジックアワー」の佐藤浩市はその俳優としてのプライドと熱い想いが絶対に揺るがない男だった。一見変わったキャラでも、その根っこの部分は非常に真っ当で正直で熱くて、そこに共感できるからこそ、周囲の数多のキャラがどうしようもない人たちばかりでも“笑い”に繋がっていく。周りの駄目なキャラたちを真っ直ぐな主役が卓球台のようにポンポン跳ね返すからこそ、ドラマは(主に)中盤以降あらぬ方向に作用し、“笑い”に昇華されていくのだ。





しかし今回の香取慎吾は、主役からして本当の意味で駄目。共感もできなければ、理解もしたくない。不快感を一番メインの人物が発している。そうなると、体育のマットの上で卓球をしているように、球(周囲の駄目なキャラたち)は全く弾まない。相互作用に至らない。絶対に自分の案件を貫こうとした「ステキな金縛り」の深津絵里にも、その正直さから血の流れない戦で敗北してしまう「清須会議」の役所広司にも、遠く及ばない。彼らの方がよっぽど固くて広い卓球台だった。結果として、何も弾まず、何も交差せず、ただ不揃いなキャラクターたちが不揃いなままそこにいるだけになってしまっている。だから、不快感もそっくりそのままストレートに胸に刺さる。

香取慎吾のノアというキャラクターも、れっきとした“宇宙人”だ。そうであれば、彼も「倫理観が理解し難い相手」にカウントしても良いのだろうか?(あくまで広義の“宇宙人”という作品のキャッチコピーを尊重した表現であり、諸々の描写から見るにほぼ確実に香取慎吾は地球人であり日本人)。私はそうは思わない。むしろ、こういう設定なら尚更、もっと馬鹿正直に真面目で、人を疑うことを知らず、不運だけど根は曲げない男にするべきだったのではないか。例えば腰が低すぎる店員でもいい。水浸しのカエル型宇宙人が来店しても、ニコニコと彼を受け入れ、自分から率先して床拭きをする。不憫な騒動に遭遇するがめげない。そういう人物にするべきだったのではないか。そうであったならば、他の不快なキャラも活き活きと見えてきて、結果的にスプーンで笑いをすくえたのではないか。


※※※


以上が、ネタバレと具体例を挙げながらの「私にとってなぜ『ギャラクシー街道』が最悪なのか」だ。結果的に、差別と偏見と倫理観欠落が110分もの間“笑い”に繋がらず抑揚も緩急も無く垂れ流しにされる映画なので、本当に苦痛でしかなかったし、精神的に殺されるかと思った。

今はただ、しばらく三谷幸喜作品とは距離を置きたい。その思いしかない。こんなにも「“つまらない”すらおこがましい」作品なんて、観たくもなかった。こんな作品に出会うくらいなら、過去に戻って古畑任三郎から三谷作品に惚れていった自分を止めに行きたい思いすらある。今はただ、本当に、辛い。



※映画・特撮の感想など、全記事一覧はこちら
【Twitter : @slinky_dog_s11 】【はてなブックマーク : slinky_dog_s11 】【LINE : @fgt3013f

【過去記事】
「WATCHA」、それは感覚を先回りする映画レビューアプリ
大傑作!「ジョーズ19」が放つ堅実かつ挑戦的な次世代サメ物語(ネタバレ+解説レビュー)
【総括】「NARUTO」全73冊+映画2本+傑作「BORUTO」を完走したので1万字かけて感想を語り尽くすってばよ!
どうして「体育の授業」のおかげでスポーツが嫌いになってしまうのだろう

Viewing all articles
Browse latest Browse all 177

Trending Articles