こんにちは、YU@K(@slinky_dog_s11)です。
“「おっぱい星人」(おっぱいせいじん)とは、女性の乳房(オッパイ)に対する興味、関心が一般の人より高い人を指す俗語である”(Wikipediaより)。いやいや、何も、おっぱい星の住人が人知れず地球人と入れ替わっているとか、がっつりとしたエロカテゴリーのレビューとか、そういう話をしたい訳ではない。ただ、前々から感じていたのだが、男は全員が「おっぱい星人」だと思っている人って多くない? …という話だ。
その文字列のごとく「おっぱいが大好きな人」を指す「おっぱい星人」。まず自分の立場から表明しておくと、私は「おっぱい星人」ではない。しかし、女性に限らず同類である男性でさえも、「男はもれなくおっぱいが好きである」というイメージが強くはないだろうか。それは別に大きさとか形談義をしたい訳ではなく、例えば「男はいくつになっても女性のおっぱいが好き」「俺たち男はついおっぱい談義をしてしまう」といった“くくり”についてだ。
性的嗜好の話で恐縮なのだが、例えば「うなじ」でも「足」「目」「尻」でも、男性が好む女性の部位は多岐に渡る。これは逆も同じで、女性がついつい見てしまう男性の部位も、人によって様々だろう。しかし「うなじ星人」はあまり存在が確認されなし、「足マン」も「目ニスト」も「尻愛好家」も、「おっぱい星人」に比べればマイノリティのように扱われている。それは事実、少数派なのかもしれない。私を除くすべての男性は、もしかしたら「おっぱい星人」なのかもしれない(まるでおっぱい四面楚歌)。しかし、私という“じゃない人”だって確実に存在する。誤解を恐れず言えば、「ぶっちゃけ胸は言うほど興味ないです、はい…」というやつだ。
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推測の域を出ないが、これはもしかしたら女性にもあるのかもしれない。「女は男の筋肉が好きなんだろ?」という視線を向けられる「“非”筋肉星人」の方はいらっしゃらないだろうか(もうひとつ挙げれば「“非”頭ポンポン星人」でも可)。私の場合はこれが「おっぱい」で、「結局男はおっぱいいのことしか考えてない猿なんだから…(呆れ)」のような視線を向けられると、非常に濃いモヤモヤを抱えてしまう。私は「おっぱい星人」ではないのに、「おっぱい星人」たちがやらかした諸々の罪を背負わされている。「男はいくつになっても例外なくおっぱいが好きでその話ばかりしている」と思っている人や、「男は皆が皆、女性の胸に視線を飛ばしている」と感じている人は、いないだろうか。少なくともここにひとりは例外がいるというのに。
別に、「おっぱい星人」批判をしたい訳でも、「おっぱい」自体を貶したい訳でもない。「おっぱい」が偉大なのは分かる。私も男の端くれだ。しかし、例えばハンバーグ定食のハンバーグに「いいね!」と言うのと、小皿の漬物に「いいね!」と言うのでは、意味が変わってくる。同じ「おっぱいいいね!」でも、ある人にはハンバーグほどの意味合いで、私にとっては漬物だったりする。“私のハンバーグ”が何を指すかはご想像にお任せしたい。
ただ、「おっぱい星人」という俗称がこれほど(ネットで)一般的に使われるのは、それが多数派だからだろう。大多数の男は「おっぱい星人」、それは間違いないのかもしれない。だからと言って、「男は全員がおっぱい星人」ではないのだ。そう、何のことはない、当たり前の話である。しかし、その当たり前って、実は容赦なく頭の中から抜け落ちる。例えば私は小さい頃から、カレーがあまり好きではなかった。もちろん出てくれば食べるが、未だに自分から選んで食べることはない。しかし、小学校の調理実習、部活の保護者たちが作る食事、クラス会、文化祭、地域の催し、そこには高確率でカレーが登場する。「子供はみんなカレー好き」という、おそらくそれを振りかざす人の多くが何のデータも見ずに頭に刻んでいる感覚。決して差別でも何でもなく、“大多数”がいつの間にか“全員”に変換される。
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先日書いた『どうして「体育の授業」のおかげでスポーツが嫌いになってしまうのだろう』という記事でも似たようなことを書いたが、「わからない」がわからない、というのは非常に恐ろしいことで、当然の事態だ。多分生粋の「おっぱい星人」の人から言わせれば、私のような「“非”おっぱい星人」は存在が信じられないかもしれないし、カレー愛好家の方は「まさかカレーが苦手な奴がいるなんて!」と驚くかもしれない。往々にして、そういうものだし、私も“それ”をやってしまうことはよくある。「〇〇のアンチは全員が××だ」「〇〇信者は他作品を貶してばかり」、オタク界隈でもこういう決めつけは絶えない。そのたまたま目にした相手が多数派か少数派かは分からないが、少なくとも“全員”ではないはずなのだ。そしてそれは悪魔の証明でもある。
ネットで度々論議を醸す痴漢と痴漢冤罪の話題もそうで、本来は性別関係なく「痴漢は犯罪」という強い認識と具体策を模索することが本筋だと思うが、“一部の”男性と女性によって取っ組み合いの醜い泥仕合にしかならないケースが多い。「男性全員が痴漢そのものを軽視して冤罪ばかり気にしている」と思っている“一部の”女性と、「女性は痴漢されるような恰好をしているのが悪いし自分で勝手に自衛しろ」と思っている“一部の”男性。しかし、ネットでは往々にしてその“一部”の声が大きいから、いつのまにか彼らが全体であるように錯覚してしまう。いや、信じたくはないが、もしかしたら本当にこういう主張が全体(多数派)なのかもしれなくて、しかしそれを誰も確かめることなく錯覚の沼で刺し合っていく。
とはいえ、少数派に目を向けて累計的な議論が進まないとそれはそれで意味がないし、少数を切り捨てずに全てを語ることは非常に難しい。全体で見なきゃいけない時、個々を見なきゃいけない時、ネットではよくこの「ピント」のズレが平行線を生んでいる。「この人たち、根っこは言ってること同じなんだろうなあ…」という議論を見かけるのは、日常茶飯事だ。互いに同じプールの中でもカルキと水に主眼を置いていて、本当は両者とも「プールって楽しいよね、大事だよね」がゴールなのに、カルキの匂いや散布の手間や水道料金に水質のデータを持ち出して刺し合う。それはもう、ぐっさぐさに刺し合う。血みどろになった舞台での「プールっていいよね」という声には、誰も耳を貸さない。
「少数を見る」「少数を見ない」は、決して相反する主張ではなく、単なるピントのズレだ。極端に左右に振れているものではない。そして中には、特定のピント自体が「わからない」人だって存在する。
私が「おっぱい星人」ではないように、あなたも「おっぱい星人」ではないかもしれないし、「筋肉星人」かもしれなければ、「“非”尻愛好家」かもしれない。要は何が言いたいかというと、当たり前も当たり前のことだが、「ネットの言論バトルは往々にしてピントがズレる(=それは白黒はっきりとレッテル分けできるものではない)」という認識だけは、持っていても損じゃないのでは、ということだ。同時に、「わからないピント」の数を減らすために、現実でもネットでも色んな属性の人の声を常に耳に(目に)しておきたい。そしてもしかしたら私もある日、見事な「おっぱい星人」に覚醒するかもしれない。そんな可能性だって、絶対に無いとは言い切れないのだ。
末筆ながら答え合わせをしておくと、“私のハンバーグ”は「脚」だ。「足」ではなく「脚」だ。
(あわせて読みたい)
・ネットの「議論」が難しいのは、常に一番大事なモノを剥奪しているから
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