こんにちは、YU@K(@slinky_dog_s11)です。
2015年の秋、特撮ヒーローファンにビッグなサプライズが舞い込んだ。2000年放送「仮面ライダークウガ」のプロデューサーであった高寺成紀さんがパーソナリティを務める「高寺成紀の怪獣ラジオ」に、ゲストでオタギリジョーが出演したのだ。クウガの主役・五代雄介を演じたオダギリジョーには、「その出演歴を黒歴史としているのでは?」という噂が長年付きまとっていた。そんな疑惑の払拭から始まった2週続けてのゲスト主演。それを聴きながら、「仮面ライダークウガ」はやはり偉大な作品であるが故に、未だに根強い呪縛であると痛感せざるを得なかった。
「オタギリジョーは特撮ヒーローを馬鹿にしている」。そう噂され続けていた15年。今回のラジオ出演においてオダギリジョーは、はっきりと「今でも特撮ヒーローは好きではない」と明言した。しかしそれは「クウガを蔑ろや黒歴史にしている」ということとは絶対にイコールではない。当時の高寺プロデューサーをはじめとする製作陣が「どうにか新しいヒーロー物を作ろう」と過去のそれらを否定し汲み上げ積み上げた諸々において、オダギリジョーの「“それまでの”特撮ヒーローは好きではない」という概念が共鳴したのだと感じた。「新しいヒーローを作る」というベクトルにおいて、オダギリジョーがいかに真摯に五代雄介を演じてきたか。ラジオではそれが何度も何度も語られた。
【参考】
・怪獣ラジオで語られた、オダギリジョーの『クウガ愛』(本当の戦いはここからだぜ)
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「仮面ライダークウガ」は、非常に神経質な作品である。本当に、病的なまでに神経質だ。場面が切り替わると、画面下にその場所名と現在時刻が分単位で表示される。「実際に怪人が出現したら警察組織はどう対応するのか」。本物の警察に取材に行き組み上げたというその設定は非常にリアルであり、ヒーローであるクウガも“未確認生命体”として銃殺されかけてしまう。その登場人物はなぜこのような行動を取るのか。今現在何に悩んでいるのか。何を抱えているのか。「ヒーロー番組だから」という言い訳を絶対に用いず、一般のドラマと同じ目線でそれらを描き切った。
「ヒーロー番組だから」は、何も悪いことではない。「子供向け」も、「子供騙し」とは違う。そして「大人向け」は、「グロやエロや倫理的に良くない要素が多い作品」と必ずしもイコールではない。特撮ヒーロー番組は、メイン視聴者である子供を中心に据えながら、様々な歴史を残してきた。その中で、どうしてもおざなりになってしまう部分はあったし、それは往々にして「ドラマパート」や「現実味のある演出」に割り当てられて“しまう”ことが多かった。
「ヒーローが登場して怪人を撃破する」。その大命題の中で、「そのヒーローが登場することで世間はどう変わったのか」「現実的に多方面からどういう視線を向けられるのか」という面は、どうしてもその尺を犠牲にしてしまう(もちろん全てがそうではない)。そんな大きな歴史の流れの中で、2000年に仮面ライダーを復活させる。「過去のヒーロー物」とは違うヒーロー物を作ろうと奮闘した製作陣が辿り着いたのは、諸先輩方が犠牲に“してしまった”(“せざるを得なかった”) 「ドラマパート」や「現実味のある演出」への異常なまでの注力だったのだろう。
各種フォームチェンジにも、しっかりとした意味と発動背景がある。ジャンプ力が高い姿では打撃が弱まり、洞察能力に長ける姿は長時間それを維持できない。ポケモンの属性やジャンケンのグー・チョキ・パーのように明確に割り当てられた各種フォームチェンジは、「敵に応じてそれを使い分ける」という戦略性の高いドラマに繋がっていく。これにより、「ヒーローが怪人を倒す」、その行動に明確な理屈が付与され、「ヒーローだから倒せる」という(良くも悪くもそれらしい)“言い訳”を完全に封殺した。勝つためにはロジックが必要であり、敵の弱点を一緒に見切る警察組織との連携がそこにしっかり絡むという構図だ。時には属性設定がピンチに働くこともあり、そのピンチが一層理屈を強くした。
ヒーローの戦いに持ち込まれた分かりやすい戦略性は、そのタクティクスが積み上がるまでの人間関係に裏付けされているから魅力的だ。冒険家である主人公は「敵を殴って殺す」こと自体がジレンマであったし、相棒の刑事はそんな彼を時に叱り時に支え続けた。世間の目が幾度となくクウガに厳しくなっても、支えてくれる人間・懐疑的な人間、その全員にしっかりとした背景と説得力が持たされる。そして、それらを全て超越した別の倫理観で動く怪人集団。神経質なまでに緻密に構築されたドラマが、神経質な“ジャンケン”であるアクションシーンに転化される。
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正直、完璧に近い。もちろん色んな意見はあると思うが、私個人は、「仮面ライダークウガ」という作品の完成度はほぼ完璧だと感じている。小学生の時に観たので思い出補正は拭えないが、それを差し引いても、一介のオタクとしてきっぱりと断言できる。だからこそ、クウガが完璧だったからこそ、平成ライダーというコンテンツはその後15年も続いていくことになる。
クウガが作ったフォーマットを群像劇に特化させたアギト。否定から生まれたそれらを更に別アプローチから否定し生まれた龍騎。ドラマ重視の作風を手を変え品を変え継承したファイズ、剣。新生を目指して紆余曲折を経た響鬼に、非常に屈折した原点回帰を果たしたカブト。その変化球が後に大きくなりすぎる電王と、どこか足を引きずりながらのチャレンジだったキバ。総括し全てを壊したディケイドを経て、平成ライダーはコンテンツとして「安定」を獲得していく。
しかし、往々にして「安定」とは「狭まる」ものであり、多方面のビジネスの縛りが強くなった平成ライダーシリーズは、その持ち味を変えなければいけなくなっていく。年に3回の映画を作り、毎週のように玩具を薄利多売し、曲を作りイベントを回り、キャストとスタッフはその膨れ上がったコンテンツに悩殺される日々を送る。個人的にクウガに次ぐ完成度だと捉えているダブルが成功し、その後、番組のフォーマットはそれを踏まえたものに固定されていく。縛りを脱却しようとした鎧武のような作品が“現れるくらいに”、固定化は進んでいく。
今や、クウガのような仮面ライダーは絶対に作ることができないのだろう。あんなに緻密にドラマを描くことも、自由度がある訳でもない。良くも悪くもノルマが多く、表現への規制も厳しくなった。「やらなきゃならないこと」をひたすらに並べ、その組み合わせで面白さを作る。「さて、何からやろうか」というクウガの作り方は、現在ではおそらく通らないのだろう。しかし、それは(あえてこう書くが)クウガのせいでもあるのだ。クウガが良すぎたから、クウガが出来過ぎていたから、平成ライダーというコンテンツはここまで膨れ上がった。しかし、我々のような面倒臭いオタクは、今でも心のどこかでクウガと比較してしまう。
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クウガは、原点でも、基本でも、王道でもない。あれは究極の変化球だった。曲りに曲がった変化球の上に積み重なった平成ライダーシリーズが、真っ直ぐに進んでいく“はずがない”。「今のライダーに比べてクウガは良かった」という物言いは、私から言わせれば「LINEに比べて文通は良かった」という言い回しと同じだ。文と文を交す文化がその後に電子メールを経て今現在LINEのような形になっている訳であって、それは「劣化」でも何でもなく、純粋な「変遷」だ。文通には文通の頃にしか出来なかったこと、そしてLINEはLINEにしか出来ないことが、あるはずなのだ。
ただ、観ている私もオタクなりに歳を取る訳で、いつまでも公平な目を持つことはできない。クウガにワクワクした少年時代の自分の“目”は、今ではかなり小さくなってしまった。それは、順調に(?)オタクとして成長してしまい、「作品がどう作られているか」「前後の歴史においてどういうポジションなのか」という視点が育ってしまったからだ。ある意味、余計な知識が全身にこびりついてしまった。だから、これは単なる事実として「クウガと今のライダーは安易には比べられない」し、それはどの分野のオタクも似たり寄ったりではないだろうか。
「今のライダーをクウガと同じ視点で楽しむことはできない」。それが嫌でも分かっているので、ここ数年の私はパズルを観察するように仮面ライダーというコンテンツを楽しんでいる節がある。オタクだからこその予備知識と予測に基づいて、毎週のように組み上げられるパズルを観て、「なるほどそうきたか~」とか「もっと上手くできただろ~」とか、そんな感じ方をしていると思う。
ネットの海には「子供番組を大人のオタクが観てどうこう言うのは無粋で見苦しい」という声もあるけれど、私から言わせればそういう人たちが誰よりも「子供」を馬鹿にしている。「仮面ライダーは子供向け」? そんな塩が塩辛いくらいに当たり前の話を得意気に言わないでくれ。だからといって自分たちが偉いだの何だのと言うつもりは無く、子供様々なコンテンツであることは誰よりも分かっているつもりだし、それはイコール「大人は感想を控えるべき」でも何でもないのだ。
クウガという作品は、私や、私と同世代の好事家たちの人生を盛大にこじらせた。そしてその完璧すぎた完成度は、今もなお15年経って、自らがベースとなったコンテンツの首を絞める向きすらある。これまで書いてきたことを全て否定するようだが、「クウガはクウガで終わって平成ライダーというシリーズにならなければ良かった」と今でも少し思っているし、でもパズル観察の楽しさはそれはそれで乙だ。クウガという「呪縛」は十数年経った今でも、己のコンテンツと多くのオタクたちを苦しめ続けているのである。
しかし、一介のオタクとして、「現役の仮面ライダーを観る今の子供たち」が「クウガを観て衝撃を受けたあの頃の私」であることを願って止まないのだ。そうであることも、そうでないかもしれないことも、今の“目”を失った私には判断ができないのだから。
(あわせて読みたい)
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