こんにちは、YU@K(@slinky_dog_s11)です。
これはブログのコメント欄でもSNSでも、もっと言えば2ちゃんねるでもそうなんだけど、やはり「ネット上の議論」というのは難しいな、と思う訳です。私は議論そのものは決して無駄や不毛なものではないと思っていて、そりゃ時には熱くなってしまう時もあるけども、ある意味現実社会では絶対に口に出せないようなデリケートな話題でもネットなら撃ち合えるので、それそれで大きな意味があるな、と。
しかしその距離感も測れず表情も読めない撃ち合いは往々にして不健全なものになりやすく、それが多くの人の中で潜在的に「議論」を「良くないもの」として印象付けてしまっているのかもしれない。
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例えば、これを読んでくれている方は、学生時代の国語の点数はどれくらいだったろうか。はたまた学生の方は、普段平均でどれくらい得点しているか。センター試験で満点に近い点数だった人もいれば、なんとか三桁には届いていた人も、中には大の苦手だった人もいると思う。そんな色んな人がただ唯一「文字」だけで会話するのがネットなのだ。まずもって、根本的な文章理解・表現に差が出てしまうのは避けられないだろう。
ただ、勘違いして欲しくないのだけど、別に「国語が苦手だった奴はネットやるな」とかそういうことを言うつもりは全くない。単なる事実の話。私だって赤点ギリギリなくらいに苦手な教科はあったし、人によって得意も不得意もあって当たり前だ。ここで私が言いたいのは、その「文章理解・表現が同じレベルの人ばかりがネットをやっている訳ではない」という非常に当たり前な事実に基づく前提条件を無意識に忘れている人が多んじゃないか、ということだ。
それは何も「文章理解・表現」だけではない。「年齢」も「性別」も、もっと言えば「育った環境」だって関わってくるが、「環境」はあまりにも細分化されてしまうのでここでは置いておこう。例として、「国語が大得意だった40歳女性」と「国語が不得意な17歳男性」が、「文字」というたったひとつの基準だけで議論を交わすのがインターネットなのだ。うん、とっても当たり前のことを言っている。なんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。
その基準が「文字」だったからたまたま国語をひとつの例として挙げたけど、例えばこれが無人島での漂流「生活」だとしよう。
必要なのは何だろう。まず「体力」、年齢や性別でこれは大いに変わってくる。「知恵」、食べられる物とそうでない物の判断、ケガや病気への対応、生活の知恵。取りあえず2つ挙げたけど、これはもう誰にでも分かるように人によって個人差が大きい。だから、仮に複数人で漂流していたら適材適所が自然と生まれていくはずである。
でもネットだとどうだろうか。「生活」と同じく「文字」にも個人差という背景があるのに、それは心のどこかでノーカウントになっていないだろうか。「体力」のある人がない人に自分と同じ考え方やパフォーマンスを要求し、「知恵」が不足している者がそれを自覚しないまま足りている者に噛み付く。より良い「生活」をするためには個人差を把握し適材適所に動くことが求められるが、より良い「文字」のやり取りの前でも求められるかもしれない個人差はまるで無かったことになる。
うん、ごめん、無人島の例えは正直あんまり良くなかったかもしれない。なんか書いててイマイチだな、と思ってきた。要は何が言いたいかというと、あって然るべき“個人差”という前提がネットでは軽々と無視されているよね、ということだ。そしてそれは、「不特定多数」の「匿名で顔が見えない」人がディスプレイの向こうにいるから、というこれまた当たり前の背景から生まれるものだ。「議論」する時に、その前提がまるで抜けているので、そもそも同じテーブルにすらつけないパターンを多く見かけてしまう。というか、実際に私もよく遭遇する。
例えば「このリンゴが甘い」と発言したら「甘い果物はリンゴだけじゃない」と批判されたりする。確かにそれはその通りなのだが、そもそも「甘い果物はリンゴだけだ」なんてことは言っていない。批判の内容自体は正しいが、そもそも妥当していない。にもかかわらず、元の作品を自分の目でよく見もせずに、「そうだそうだ、甘い果物はリンゴだけじゃないだろ!」と乗っかっていく人たちが増殖していく。
・いい物を作れば批判も気にならないなんて嘘
このエントリー創作サイドと批判する者の関係に言及したもので私が書いてきた「ネットにおける議論」とは直接関係がないのだけど、この部分の例えが秀逸なので引用させてもらった。
この場合の「甘い果物はリンゴだけじゃない」の人は、元の人が言ってもいないのに「甘い果物はリンゴだけだ」というメッセージを汲み取り、反論している。もしかしたら故意に揚げ足取りをしているのかもしれないが、それはこの場合例外として外す。ネットにおける議論を眺めていると、たまに本気で「このリンゴが甘い」を「甘い果物はリンゴだけだ」に読み替えるような人を見かける。どこでどう脳内ウルトラCが決まったらそうなるのか分からないが、本当にそういう人がいるのだ。
もうこの時点で論点がズレて、同じテーブルにはつけなくなる。元の人は「“このリンゴ”が甘い」という話をしているのに、いつのまにか「甘い果実とは」という方向に傾き、そして「そもそもそんなことは言ってません」「言ってるじゃないですか」という反吐が出そうな論点にシフトしていく。そして往々にして、「甘い果物はリンゴだけじゃない」と反論してきた人は、論点がズレて同じテーブルにすらつけていない状況にすら気付けていない。
理解度の個人差というものは当然あって、それは本当はこの時点で双方が分かっていないといけない。これが顔の見える、例えば学校の授業とか、同じ会社の上司とその部下とかなら、まだ他の情報がある。相手の理解度や、表情の動き、普段からのコミュニケーションなどだ。
しかしネットはそうはいかない。個人差という前提条件がリセットされ、まるでネットで全世界のアカウントとゲーム対戦する時のようにランダムに相手が決まる。「国語が不得意な17歳男性」はおそらく無意識に相手もそのくらいのスキルだと思い込んでいるが、実は「国語が大得意だった40歳女性」だったりする。こんな2人が、例えばあろうことか「結婚における夫婦の役割」等を議論したりしてしまう。
もう一度書くが、「国語が不得意な17歳男性」と「国語が大得意だった40歳女性」が「文字」だけの情報で「結婚における夫婦の役割」を議論して、果たしてどれくらいの確率で互いがちゃんとテーブルにつけるだろうか。それに、もしかしたら17歳男性は両親がつい先日離婚したかもしれないし、40歳女性は弁護士の妻で何不自由ない生活をしているかもしれない。「結婚における夫婦の役割」という議題で、果たして建設的な意見交換が成立するだろうか。
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とっても、とーーーーっても当たり前の話だ。インターネットとは、そういうものなのだ。だからこそ、自分と相手が同じ理解度という無意識な思い込みは常に捨てて行かなければいけないし、その上で、テーブルにすらつけない相手の腕を掴むのか、はたまた追い出してしまうか、こちらの方からテーブルを去るか、それを慎重に選ばなければいけない。本来、どこよりも“個人差”を加味しなければならないネットは、どこよりも“個人差”を無視してしまう。「文字」だけで殴り合うには、本当はあまりにも前提条件が破綻しているのだ。
まあ、むしろその“個人差剥奪”だからこそ、デリケートな話題でも容赦なく撃ち合えるということでもあるんだけどね…。
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