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Channel: YU@Kの不定期村
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【公開日深夜感想】「スター・ウォーズ フォースの覚醒」、その伝承を“認識”せよ。(ネタバレ込み)

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こんにちは、YU@K(@slinky_dog_s11)です。

32年振りにひとつの物語が前に進むことなんて、そうそうあることではないだろう。「スター・ウォーズ / フォースの覚醒」、日本時間で2015年12月18日18:30に封切られた本作を、その波に乗るべく初回で鑑賞した。興奮沸き立つ劇場は田舎の映画館でもほぼ満席で、特に初老を過ぎた男性客が目立った。まさにEP4のドンピシャ世代だろう。皆が皆、子供のような笑顔で今か今かと上映を待っていた。

完全なる後追い組でありながら他ならぬ私もワクワクして座席に座っており、やがて初日初回特別版ということで、予告も何もかも無くオンタイムで物語がスタートした。ジャーン!とあの何度もTVの画面で観た文字がスクリーンに現れては遠ざかっていく様は、予想の何倍も感慨深かった。「フォースの覚醒」は完全なる情報規制が敷かれており、あらすじすらほぼ公開されていない状態であった。よって冒頭のクレジットからして何度も何度も自分に言い聞かせるように読み込み、咀嚼した。話の全体像が見えてくるにつれて興奮も加速度的に高まる。

本作は10年振りのスター・ウォーズの新作でありながら、83年に公開されたEP6の続編に当たる。そのため、「物語としては32年前の30年後」でありなが、「映像は10年振りの2015年最新作」という、非常にハイブリッドな作りになっていた。しかし、温故知新という表現では簡素すぎて申し訳なるほどに、見事にその融合を果たしていたと言えるだろう。J.J.エイブラムス監督はこの重すぎる大役を見事にこなして見せたのではないだろうか。新しい表現も沢山ありながら、それでも旧三部作の映像の質感が見事に継承されており、古さと新しさの完璧なる同居がそこにあった。セットの数々やVFXとSFXのバランス、しかし絶対にあの頃には無かったカメラワークなんてのもあったりで、スター・ウォーズ自身が自らのブランドでスター・ウォーズをアップデートしたかのようだ。





※以下、「何を語ってもネタバレになる」本作をとことんネタバレ込みで語っていくので、くれぐれも鑑賞予定の方は読まずにページを閉じてください。



■シリーズ7作目が持つ特性とプライド

スター・ウォーズの過去6作は、私は実はかなり「淡々とした映画」だと思っている。例えばEP3の終盤でオビ=ワンがアナキンの悪行を録画映像で目にしてしまうくだりがあるが、彼にとってはあそこで初めて弟子であり擬似息子だった青年の明確な堕落を知ることになるのだけど、カメラが彼の表情に寄ったり、またはその悲しみや絶望を煽るような溜めもない。非常に淡々と黙々と、物語が進行していく。旧三部作、新三部作、共にそのような「意外とサラッとやるね」と感じるシーンが多く、だからこそスター・ウォーズはあの登場人物たちの物語でありながら、前後に延々と続く宇宙の壮大なる記録の一部を切り取ったかのような、どこか独特な第三視点を持つシリーズという認識であった。

そんなシリーズの最新作「フォースの覚醒」だが、過去6作の「淡々とした進行」は引き継ぎつつも、非常にエモーショナルで感情的な映画に仕上がっていた。とはいえそっちに振り切れることなく、あくまでスター・ウォーズとして成立させている面が素晴らしいのだ。衝撃のカイロ・レンによるハン・ソロの殺害。レンの赤い目と滲む涙を捉えながら、ライトセーバーで貫かれ落下していくソロの死に際の表情には全くカメラが寄らず、引きのカットであまりにも呆気なく(しかし印象的に)落下していく。絶妙なバランスでサクッと進めながらも感情移入だけは逃さないこのバランスに、作り手のスター・ウォーズとしてのプライドの高さを垣間見る。





ソロとレイアの息子であったカイロ・レン。その本名は「ベン」であり、言うまでもなくベン=ケノービから取られているのだろう。ルークが名付け親なのか、という想像を抱かせる。そんなルークは戦友ソロと妹の息子をジェダイにするべく預かるが、ベンは暗黒面に傾倒してしまう。弟子の育成に失敗してしまうのはまさに父であるアナキンが持っていたキーワードであり、二世代で逆パターンの歴史が繰り返されている構図になる。そして、ルークはその身をどこかに隠してしまった。

同じ構図といえば、スターキラーでのソロとカイロ・レンが対峙するシチュエーションは、そのセットの空気感もあってEP5のルークとベイダーとの対になっている。黒い面の闇にいる男と、血の繋がりを持つ光にいる男。親と子という属性が反転しているが、最終的に同じように「落ちて」しまう辺りもニクい。直後のチューバッカの悲しい叫びと走りながらの銃撃は、身動き取れず衝撃を受けるままのレイたちとの対比が効いているし、ソロの遺体があるにも関わらず躊躇いなく爆破スイッチを押すあたりも、常にしっかり状況を把握できるチューイらしさがある。だからこそ、ソロの死が後から後からジワジワと殴ってくる。ラストにレイを迎えに現れたミレニアム・ファルコンの中に実は「やあ」と乗っているのではないかと、祈りに近い想像をしてしまったほどだ。

このスターキラーでの潜入作戦に限らず、本作には多くのシリーズセルフオマージュが溢れている。言うまでもなく砂漠の土地でどこか人生を諦めと達観で過ごしていく主人公・レイはEP4のルークであるし、ポー・ダメロン率いる部隊がスターキラーを爆破するべく突入するシークエンスは、そっくりそのままEP4終盤のアップデートであった。シリーズお馴染みの宇宙人がウヨウヨする酒場や溜まり場のシーンであったり、「囚われた女性を救いに行き要塞兵器(星)を破壊する」なんて本当にそのままのプロットである。そんな作り手のスター・ウォーズ愛に溢れた物語は決して安易な過去の真似っこではなく、ちゃんと再構成してアップデートされているからこそ、32年振りの物語の進行に実感が湧いてくる。冒頭でいきなりビーム弾が空中で止まって腰を抜かしたものだ。





何度も書くようだが、このようなハイブリッドさとバランスが本当にお見事なのだ。「あの頃のスター・ウォーズ」と「新しいスター・ウォーズ」が、絶妙な配分で両立されている。2015年のスター・ウォーズ体験として、この上なく望ましいバランスだったと言えよう。



■眼力のヒロインと馬鹿正直な裏切り者

本作で主人公に抜擢された無名の女優、デイジー・リドリー。シンデレラのように大役・レイをゲットした彼女だが、とにかくとことん魅力的であった。性格はレイアとパドメの美味しいとこ取りのようで、序盤のご飯を食べる姿や物を運ぶ仕草はかなり男性的で粗雑なのに、絶妙に艶と気品がある。何より目力が素晴らしく、その真っ直ぐとした眼差しが語るままに探究心と好奇心を体現していく。パンフレットのJ.J.エイブラムスのインタビューにて、レイ役の彼女に求めた素養が以下のように語られている。「脆弱でありながらタフ、恐怖におののきながらも思慮深く、優しいが混乱している」。まさに一言一句このままの二面性を抱えながら、しかしとにかく前向きに楽天的に活躍する彼女の姿は、この上なく眩しかった。





レイは、砂漠の星・ジャクーで誰かを待ち続けていた。物語中盤でルークのライトセーバーに触れた際にその記憶の断片が垣間見えたが、誰かに預けられ置き去りにされたのか、涙ながらに叫びつつ家族を見送ったようである。ものすごくベタに考えるなら彼女の姓はスカイウォーカーだと思うけども、果たしてどうなるのだろうか。ルークの元で修行した経験を持つカイロ・レンまでもを圧倒するフォースの資質を持つ彼女だが、仮に彼女がちゃんとした修行を積んだならば、相当に強力な使い手になるだろう。というより、天性のパイロットテクニックや勘の鋭さは、どこかで身につけたのか、それとも全てフォースの導きによるものなのか…。天才肌である自分自身に驚きつつ自慢げなところも可愛い。

フィンは今作のMVPというか、おそらく多くの観客の心を掴んだ存在ではないだろうか。過去の6作においてトルーパーの「個人」が取り上げられることはほぼ皆無であり、だからこそ彼の異質な立ち位置は新鮮さと安定感の双方に寄与している。序盤にてメットに仲間の血が付着するが、「命を奪う戦いに悩む青年」に血をまとわせつつ映像としての分かりやすさの目印にもなっており、とってもスマートな見せ方だったと感じた。BB-8を強奪せんとする2人組と争うレイを見て、自身も追われる身なのに思わず助けに行くくらいには正直者の馬鹿で(褒め言葉)、だからこそ彼が中盤まで「逃げる」ことを正面から主張するのにもジレったさが生まれない。「くよくよしてんじゃねーよ」ではなく、「そこまでファースト・オーダーってやばいのか...」に傾くあたり、描き方が上手い。

「命を奪う行為はうんざりだ」とファースト・オーダーを抜け出したのにも関わらず、中盤ではライトセーバーを手に元仲間をどんどん殺していく。初めてEP4を観た時にも「ルークって結構普通に殺すなあ」という感想を持った覚えがあるが、そもそも表題がウォーズ(戦争)だからこその価値観なのだろう。まあ、中盤でフィンが「俺はトルーパーとは戦えない!」とか言い出しても面倒臭いだけなのだけど…。



■不器用なまでに幻影を真似る“新たな黒い仮面”

新キャラクターの核を担うのは、カイロ・レン。ダースベイダーと同じ黒装束に黒マスクを身に付けているが、これは彼に憧れる身だからこその、ある意味コスプレとしての衣装だったのかもしれない。「祖父にあたるダースベイダーを盲信する自分」と思い込むことで暗黒面に自分を置こうと苦心している。最高指導者スノークによって意図的にベイダーを心の支えと埋め込まれているのだろうか。何より肝心の「何があってルークの元を離れ暗黒面に傾倒したのか」が全く語られていないので、彼の背景は続編待ちといったところ。(この辺り、旧三部作のベイダーの立ち位置とも被る)





何よりベイダーを盲信する割には中身がまだまだ子供で、任務が思い通りにいかないとすぐにライトセーバーを使って周囲に当たり散らす。部下のトルーパーにも影で鼻で笑われているし、亡きベイダーのような気品も重鎮っぷりも皆無で、だからこそ彼がそれを真似ようと振る舞うのが非常に滑稽に見えてくる。この辺りの人間臭さはソロの息子である設定と相性が良く、人間臭いからこそ暗黒面に墜ちてしまうのはアナキンが10年も前に証明してしまった。

なぜソロを憎みルークの元を離れるに至ったのか。祖父であるベイダーのメットも、もしかしたらスノークが用意したもので、一種の洗脳アイテムなのか。つばぜり合いでその真価を発揮する十字のライトセーバーを感情のままに振り回しながら、「祖父・ダースベイダーに憧れる子供」であるベンは今後の物語でるどのような変遷を辿るのか…。



■“スター・ウォーズ”が放置した粗

「聖書に文句を言っても始まらない」というロジックではあるが、旧三部作も決して完璧な物語ではない。例えばEP4だと訓練はするもののルークはライトセーバーをまともに戦闘で使わないまま物語が終わるし、EP6のボバ・フェットも前作までかなり強めの存在だったのにこの上なく呆気なく散ってしまう。そんな、捉えようによっては肩すかしというか、「…おっと?」という部分も内包しているのがスター・ウォーズの面白いところで、それは映画の作り方が30年も前のものであるからして、「聖書に文句を言うのは野暮」なのである。

とはいえ今回「フォースの覚醒」にて聖書の新たな1ページを描くのだから、それはどうしようもなく完璧を求められてしまう。全てのキャラにしっかりとした見せ場や活躍を与え、消化不良なくシナリオを構成し、辻褄や整合性もバッチリ精査して…。そんな高すぎるハードルの前で「フォースの覚醒」は、驚くべきことに割といくつかのポカを内包している。観た人なら全員が感じたであろう「え? キャプテン・ファズマって脅されてバリア解除だけの役割?」とか、「タイ・ファイターごと沈んだポーが特に助かった背景もなく生きてるってどういうこと?(説明不足)」とか、もっと言うと「スカイウォーカーの地図って誰がどう作ったんだよ」「R2が最後にあのタイミングで起動した理由は?」「レン騎士団って意味あったの?」などと、粗のような突っ込みどころは細かいことを言うと実は沢山あるのだ。





しかしこれ、個人的にはわざとやっているのかな、と。「あの頃(旧三部作)のスター・ウォーズ」が持っていた不安定さや部分的なバランスの悪さ、肩すかしなポイントなどを、分かってて再現しているような印象を受けた。突き詰めて考えていくと、確かにスター・ウォーズにそういう「整い方」はあまり求めていなかったのかもしれないし、むしろ「あれどういうことだよ!」と言うのもひとつの楽しみ方であり、監督が大ファンだからこそのバランスなのかな、という気もする。だって「この程度」の粗、見つけられないはずはないし、直せないはずもないからだ。だって名だたるスター・ウォーズを作るんだから。とはいえ「もっと何とかしろよ!」という声が上がるのも当然だと思うし、そういう声も大いに分かる。個人的にはとってもチャーミングな悪ふざけのようにも見えたし、それよりも終盤のエモーショナル溢れる展開と演出で吹っ飛んでしまったほどだ。



■フォースの覚醒

ソロが死に、フィンが倒れ、世界中の誰もが予想していたあの展開が訪れる。そう、レイのライトセーバー戦だ。「無いはずがない」とみんな分かっていただろうに、公開になったスクリーンのその瞬間までセーバーを構える姿が全く出てこなかったのは物凄く偉い。予告等で選抜されたカットやシーンがいかに慎重に精査されたものだったかを痛感する。

レイは、観客より無知である。自らにカイロ・レンを跳ね返すほどの力があることを知っても、それが「フォース」だとは分からない。力の名前すら知らないのだ。観ているこっちとしては作中の不思議パワーは基本的にフォースであり、それら当たり前の事実は前提条件として捉えてしまうが、クライマックスにレイはレンとのつばぜり合いの中で「自分の不思議な力がフォースと呼ばれるものであること」に気付く。おとぎ話のように感じていたジェダイやフォース、彼女は知らず知らずのうちにその中心点に立っていたのだった。そしてマズ・カナタの助言を思い出し、緊迫した戦闘の最中に静かに目を閉じる。レイのフォースの高まりとその安らかで覚悟に満ちた表情に、どこか圧倒され見惚れるようなカイロ・レン。レイの「覚醒」は、もっと厳密に言うなら「認識」であった。“それ”がフォースであることを認識することが、より一層フォースを強めることになる。レイは然るべくして「覚醒」を果たしたのであった。





雪山に光るライトセーバーの殺陣は新三部作のスピーディさやアクロバティックさ、形式染みた剣さばきは全く無く、旧三部作のような大味でぶつけ合うタイプの進化系となっていた。映像技術が進歩してもちゃんと中身が前のままだから素晴らしい。相対的に、新三部作のセイバーさばきが新作が出ても全く衰えないのが面白いのである。地形を使った縦の戦いや、崖から落ちそうになる際の舐め回すような煽りのカット、グッと寄ってキャラクターの感情を爆発させたかと思えば、引きの絵で白い雪との対比を映えさせる。シリーズでもトップクラスに美術性に長けたライトセーバー戦であり、新しい戦いの見せ方として挑戦的だったと言えよう。



■新たな三部作はここから

そして、レイはチューバッカやR2と共に地図が指し示す星に向かう。あり得ないはずなのにまるでアース(地球)かのように演出された海が広がる星にて、ルークは霞を食べて生きていた。劇的なライトセーバー譲渡のシーンが ぐわぁっ! と回り込む空撮で捉えられ、そこで物語は幕を閉じる。

「フォースの覚醒」は良い部分も悪い部分も非常にスター・ウォーズ的であり、その上でセルフオマージュと温故知新に満ちた2015年のSF娯楽大作として、期待を受け止めるだけのクオリティは有していたと言えるだろう。とはいえ、ソロの死というショックすぎる展開や前述の粗がある部分に始まり、「好きだからこそ」の不満点はおそらく今後ネットでも死ぬほど挙がっていくことと思われる。しかし、それすらもまた新たな聖書の1ページとして刻まれていくからこそ、このシリーズは「らしさ」に溢れている。





誰かを待つことを諦め、自分から動き出したレイ。彼女はフォースを操りながら、暗黒面にいることで自らを保とうとするベンと対峙していくことになる。いつかルークが砂漠の星を抜け出して帝国を打倒したように、レイが今後新たな歴史の担い手となる。そんな永劫続く宇宙のほんの少しの期間の記録をリアルタイムで見届けられる“今”に立ち会えていることを、まずは何よりも喜びたい。

細かい考察や感想はまた追々書いていきたいが、公開初日の深夜というこうとで精神的にも疲労困憊。取り急ぎ抱えていた感想をここに零したのだけど、ひとまず、これにて…。


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