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Channel: YU@Kの不定期村
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乗り換え変身の無意味さから読み解く「烈車戦隊トッキュウジャー」

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こんにちは、YU@K(@slinky_dog_s11)です。

トッキュウジャーが終わってもう1年が経つと思うと本当に月日が流れるのは早い…。前の会社の40代の上司に「なんで若者に比べて俺たちは毎日が早く感じるか分かるか?」と聞かれたのを思い出す。「20代の君たちにとって、1年間は1/20だ。でも40代だと、1/40になる。そりゃ短く感じる訳だよ。小学生の頃なんて、1年間はとても長かっただろ? あれは1/7だから当たり前なんだ」。もちろん誰にだって流れる時間は同じだけど、「経験」という蓄積はその体感を狂わせていくものなのだろう。そんな「経験」を経ずに大人になっていたのがトッキュウジャーの面々であり、それこそが物語の一番の肝であった。

トッキュウジャーの放送が開始され第1話を観た時に抱いた率直な感想は、「意外と普通だな」、というものだった。初めてスーツデザインを観た時は本当にびっくりした。「なんだこれ…ダサ…いやもはやダサいなんてレベルじゃ…これご当地ヒーローのやられ役一般怪人みたいな感じでは…」。しかし実際に動く映像を観てみると、肩部分に一色ながら衣装の分割が入るようなデザインになっており、思っていたよりも立体的であった。簡素なデザインは胸の数字と腕のブレスを際立てるし、余計な装飾が無いからこそアクターの方々も存分にキャラクターを演じつつアクションが出来るのかな、と。





とは言いつつも、電車のヒーローというとやはりどうしても「仮面ライダー電王」という偉大な先駆者が既視感をもたらしてしまうし(これはメイン視聴者の子供には関係がないのだけど)、ぶっ飛んだデザインのスーツやロボットに比べてお話は割と堅実にまとめ上げられた感じで、開始前に抱いた「破天荒さ」「常識外れっぷり」に対して一種の肩すかしを覚えていたのが本音だ。乗り換えチェンジという胸の数字で個体認識をしてカラーチェンジをするというギミックも、そこに何の意味があるのか全く分からず、「もっと戦闘で活躍するロジックやアイデアを活かしてくれよ…」などと思いながら観ていた。

キャラクターも非常に“子供っぽく”、言動が行き当たりばったりで人間関係の機微にも疎く、ぶっちゃけ自分の中であまり好感度は高くなかった。とはいえメインライターが小林靖子なので「何かあるんだろうな。何か…」と邪推はしていたものの、序盤は心から乗り切れてはいなかった。しかし、中盤でそれが完全にひっくり返る。彼らは実は10歳の子供であり、レインボーライン総裁の手によって大人の姿に変えられていたというのだ。おまけに、その記憶を完全に失い、故郷も家族の思い出も全てを忘れていた、と。そして物語は「子供に戻れない」というリスクと対面していくことになる。

言動が子供っぽいのも完全に仕込みだったということで、「またもや小林靖子に騙された…」とかいう訳のわからない感慨に浸ったあの日。戦隊シリーズは言うまでもなく子供向けをメインとした番組なので、成人前後の役者が演じても子供っぽい言動になることは少なくない。それは「分かりやすさ」重視のデフォルメであり、一種の極端なキャラ付けは「シリーズあるある」のひとつとして(無意識に)整理することができる。だからこそ、トッキュウジャーの面々の「子供っぽい言動」はその「シリーズあるある」が完全なる“煙幕”であり、「子供っぽいけどこれそもそも戦隊シリーズだしこんなもんかねぇ…と思っていたらマジで子供だったくそやられたっ!」という気持ちの良い“騙し”になっていた。





また、「乗り換え変身の無意味さ」についても、終わってみればその「無意味さ」こそに意味があったなあ、と。最初に劇中で乗り換え変身を披露した際も、「これに何の意味があるの?」と演出でセルフツッコミをさせるくらいにはロジックが欠落していた。例えばイマジネーションにも「放つ」「撃つ」「弾く」等の個人によるバリエーションがあり、色準拠でそれぞれに属性等があれば、「レッド(炎)×放つ(1号)=火炎放射」「ブルー(水)×弾く(5号)=水のバリア」といったように、そこに意味を持たせることはいくらでもできただろう。サポートレッシャーにも乗り換えてそっちの販促も強化するとか、素人ながら「こんなことも」「あんなことも」と考えは膨らむばかりだった。

しかし、それをはるかに超える「無意味さ」は、それそのものが子供の「ごっこ遊び」だったのではないだろうか。大人から見れば意味のないようなギミックに一生懸命に凝り、「戦いごっこ」で走り回る子供たち。「取りあえず使ってみよう・やってみよう」「なんだこれ? でもなんか面白いからいいや!わーい」。10歳の子供であれば小学4年生なので、この感覚で乗り換え変身をして「遊ぶ」というのは妙な納得感すらある。しかし、彼らはトッキュウジャーとしての「経験」を積んでいき、乗り換え変身によって敵をかく乱したり、武器を瞬時に移動させたり、持ち寄ることで変身可能時間を延ばしたりと、段々とそれに意味を持たせていくようになる。

乗り換え変身の使われ方の推移は、「ごっこ遊びからの脱却」そのものに見えるのだ。意味のないギミックで遊んでいた彼らが、子供には不釣り合いな戦線を潜り抜けていくにつれて、そこに意味を持たせていく。経験を蓄積し、子供ながら大人になっていく。むしろ、“「ごっこ遊び」じゃいられなくなっていく”という残酷さにこそ意味があり、それは最終的に「子供に戻れなくなるかも」という彼らが対面する最大のリスクに繋がっていく。「無意味な乗り換え変身」は、彼らが後にそれを段々と使いこなすことで初めて意味を持つという「無意味さ」だったのではないだろうか。

もちろんこれは物語的な考察であり、設定的には別の意味が持たされていたのだろう。総裁による対シャドーライン武装として、変身が制限された環境での対抗策として搭載されていたのかもしれない(実際にドリルレッシャーを用いてシャドーラインに突入した際にはこのように使用された)。それとは全く違う「本当は1人だけど5人に見せかける作戦」等に彼らが知恵を絞って使用していたのもまた面白くて、そういった発想の蓄積が経験となり彼らを否が応でも「大人」に近付けてしまったのではないかな、と。そう考えると、「戦えば戦うほどに自分ではなくなる」という(仮面ライダーに代表されるような)石ノ森ヒーローイズムも感じるところで、脚本家繋がりでその数年前の「仮面ライダーオーズ」のクライマックスを思い出したりもするのだ。





しかし、その「ごっこ遊び」から「子供ではいられない彼らの立ち位置」と変遷して使われてきた乗り換え変身が、最終的には「乗り継いで、レインボー」に繋がっていくから美しい。突如発現したあの虹のトッキュウ1号は、もしかしたら彼らがこれまで紡いだ戦いによる経験がもたらしたもので、それが「乗り換え変身」を通して伝わっていったと解釈すると、1年間の5人(+1人)の戦いこそがあの幻の姿を導いたのかもしれないと、なんとなく綺麗な道筋に見えてくる気もする。「子供らしさ(無意味さ)」を捨てて戦ってきたからこそ、「虹」に到達できた。「乗り換え変身」というスタイルは、そんな彼らの1年間の軌跡を象徴するギミックだったのかもしれない。(6号固有の色だったオレンジに乗り換えられのも、彼らの成長と照らし合わせると色々と意味深である)

「ヒーローなのに出来ればもう戦って欲しくない」という感情を持たせてくれたトッキュウジャー。「子供らしさ」と「大人じゃなきゃ戦い抜けない」のジレンマに苦悩しながら、仲間との絆というある種ベタすぎるかもしれないパワーでそれを乗り切った彼ら。最終回でしっかり“子供に戻れた”ことが、この上なくハッピーエンドだったなあ、と。未だに思い出しては少しホロッとしてしまうのだ。 (しかし、今度の「手裏剣戦隊ニンニンジャーVSトッキュウジャー THE MOVIE 忍者・イン・ワンダーランド」の彼らは、一体どこの時間軸の彼らなんだろうか…)


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