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Channel: YU@Kの不定期村
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映画「アントマン」のここが惜しかったからお茶をください角砂糖は結構です!

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こんにちは、YU@K(@slinky_dog_s11)です。

マーベル・シネマティック・ユニバース(以下、MCU)最新作の「アントマン」を観た。色々と用事があって公開当日には観られず、一週遅れで鑑賞し、その数日後に二度目の鑑賞。非常に上質なコメディタッチのヒーローアクション映画だと感じている。MCUが「アイアンマン」以降作品のスパイスとして織り込んできたオフビートで時にナンセンスな緩急ギャグをこれでもかと全編に盛り込み、それでいて家族や親子といった身近なテーマでしっかりと筋を通している。様々な「ヒーローとは」を提唱してきたMCUの最新作として、とても興味深い仕上がりだ。世間の評価も高い。

ということで言わずもがな良く出来た映画なのでね、ぜひ今、このタイミングで劇場でウォッチしてくださいっ! …というパクリ文句で締めたいところではあるが、好きな映画・気に入った映画だからこそ、あえて「ここが惜しかった」というポイントから語ってみようかな、と。

何度でも前置きするけどこの「アントマン」は本当に気に入っていて、どれくらい気に入っているかというと購入したマーベルセレクトのフィギュアがもったいなくて開封できないからサントラを聴きまくってなんとか自分を誤魔化しているくらいのお気に入り。テッテッテッテ テッ↑テッ↑テッ↑テ↑ テッ→テッ→テッ→テ→ テッ↓テッ↓テテン↓ …というあのメインテーマが頭の中からここ数日離れなくて困る。


※以下、「アントマン」本編のネタバレがあります。



■テンポと緩急も身長みたく極端に!

「アントマン」は非常に軽快なテンポで話が運ばれる作品で、それはそれでとても楽しい。“家でソファに寝転がりながらビール飲んで観たい系映画”に数えられる。むしろ今年の筆頭だ。だからこそ、そのテンポが結構一定だったな、と感じなくもない。

要は、ずっと「軽快」なのだ。いやもちろんグッとくるシーンはある。ピム博士が自身の奥さんであるアントウーマンことワスプの最期を語るくだりや、「俺は使い捨てだ」と父娘の仲を取り持とうとするスコットなど、少しホロリとくる。が、そこに“溜め”は意外と少ない。割と最初から最後までテンポが良すぎるので、緩急に欠ける。後半の方も畳み掛けるようにネタが続くが、前半からずっと小ネタが多かったこともあり、面白くはあるが爆発力には届かない印象が残った。

例えば前半がもうちょっとじっくりな感じのドラマだったら、後半のトーマスのくだりやアタッシュケース内アクションなどで今以上に「盛り上がって来たぞ!」という感覚があったように思える。ネタ自体はどれも天下一品なので、もっとそこに強弱をつけても良かったのかな、と。でも、それをやっていくと結局は「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」と同じ味になってしまう感じもして、あえてのこのバランスなのかな、とも思う。難しい…。「ガーディアンズ~」は冒頭でいきなり母と死別するシーンがあるから、その後の軽妙なシーンにもがっしりとした土台を感じられるのが上手い。





緩急以外にも、中盤の訓練シーン。「鍵穴を抜けられるように」「格闘技訓練」「スーツの調整作業」「アリの生態お勉強」「角砂糖を入れられるように」…といった様々な要素がテンポよく披露される。が、ここももうちょっと突き抜けられたのかな、と。もっと突っ込んで言うと、結局はスコットが角砂糖を入れられるようになったシーンが無いのがどうにも気になってしまった。いやね、分かる。そこはホープとの車内のドラマがあるから勢いが止まるのはあるんだけど、矢継ぎ早に展開される訓練の数々が段々と実を結んでいく高揚感は、もうちょっとグングンやれたんじゃないかと。

盛り上がってきた…盛り上がってきた…いけいけいけ、というタイミングで、ピム博士とスコットの「それ以上リフレクターをいじったら粒子の世界に行ってしまうぞ」というシーンが挟まりテンポが中断される。その後も訓練が加速して、いけいけいけ、となった場面でスコットが「できない!」と蟻操作を投げ出しホープがそれをやって博士に止められるというちょっと不穏なシーンに繋がる。驚異的なワクワク感で続いていく訓練シーンは、今一つ山の頂上までは届かなかったような、そんな軽微な消化不良を覚えてしまった。まあ、この「ちゃんと達しない」ということすらもスコットらしさではあるんだけど。

でもやはりスコットが角砂糖を入れるシーンは欲しかったなあ。最後の最後、博士が「いつからそうなった?」とキスするスコットとホープを注意(?)するシーンで、スコットがいけしゃあしゃあと「博士、それよりお茶はいかが?」と背後の机の上のティーカップに蟻を操作して角砂糖を入れてドヤ顔、とかね…。

実際のアントマンが出てくるまで結構前フリが長いとかそういうのもあるんだけど、個人的にはもうちょっとテンションの幅が上にも下にも広い方が好みだったかな、という重箱の隅突きのような話。



■へっぽこヒーローなアントマンにも見せ場を!

そもそもが戦闘用のヒーローじゃないのでお門違いではあるかもしれないが、アントマンのヒロイックな活躍がもう少しあっても良かったかな、と。その最大の特徴である縮小化や蟻を従える技術など、隠密起動に長けているのがアントマンだ。ピム博士がスコットに目を付けた理由からも、そもそも戦闘用でないのは明白だ。だからこそ、スコットの悪知恵と工夫が合わさればファルコンのスーツにダメージを与え戦闘不能に陥れることも可能になる。戦闘用でないからこそ使い方次第で戦闘においても未曾有の強さがある、ここがアントマンの魅力だ。





結局今回の「アントマン」はラスト十数分でイエロージャケットと戦うだけで、他は潜入作戦だ。凸凹ミッション:インポッシブル。蟻の特性を場面場面で応用して潜入するのは非常に映像として面白いが、ヒーローとしての“絵的な活躍”がもうちょっと観たかった(テーマ的なヒーローとしての活躍については後述)。イエロージャケットへの勝ち方も特攻作戦であるため、カタルシスが生まれる類のものではない。しかしそこには親子のドラマ、ピム博士から受け継がれた二代目アントマンとしての矜持と決意があるため、文句を言うのも野暮のように思える…。

とっても雑な表現をしてしまえば、アントマンには「かっこいい!」が今ひとつ足りなかったのかな、ということだ。(分かってる…分かってますよ…かっこよくないからアントマンなんです…分かってるんです…その上で、というやつでして…)



■いっそコラボ要素が無くても良いのでは?

ユニバース作品にこういうこと言うのもかなり変なことではあるのだけど、MCU要素がむしろもっと少なくても良かったんじゃないかと。それは、この「アントマン」が家族のドラマとして非常に洗練されているから。スコットと娘・ピム博士とホープ(+奥さん)・ピク博士の息子のように思っていたダレンとの対立・出所から一番に出迎えてくれる家族のような仲間たち…。全ての人間関係とテーマが「家族(=親子・仲間)」に帰結するのが非常に美しいのだ。だからこそ、ファルコンと戦う中盤のイベントや、アベンジャーズ加入を示唆するラストが、どうにも浮いて見えてしまう。

本筋がありえないくらいに綺麗だからこそ、コラボ要素が余計に感じる。コラボ前提の作品群からすれば本末転倒なのか野暮なツッコミなのかどうにも分からなくなるが、それほどに余計なものが削ぎ落とされているのだ。それぞれちゃんと“抱えた”ものがあって、そのために一直線。交わる部分は交わって、そうでない部分は明確に決裂する。





ある意味非常に「わかりやすい」お話の組み立て方なので、アベンジャーズ関連がない方がもっと単体としての完成度は上がったんじゃないかと思えてならない。いやね、もちろんファルコンが出てきて「エイジ・オブ・ウルトロン」では見せなかった活躍を披露してくれたのは嬉しかったんですけど、それは「MCUとして」の感覚であって、「アントマンとして」観るとまた別だと思うんです。

まあ、でも、これすらも「何言ってんじゃ~~」ではあるんですよね。だって「アントマン」は、MCUの第12作目だから。シリーズ12作目に対して「シリーズ感をもっと薄めてくれ」とかほんと無理な注文。分かってる分かってる…。でも、それでも言いたくなるくらい、要素の取捨選択がキレッキレだと感じたのだ。



■「アントマン」はMCUからの手切れ金

結局陳腐な駄目出しをしながら「アントマンさいこ~~」としか言っていないような歯切れの悪い内容になったが、これが正直な感覚だ。そりゃ最高だったんだもん。虫が苦手な私が蟻たちを愛おしいと思えたことが何よりの収穫だし、アントニーが死して翅(はね)が落ちるシーンでは泣きそうになった。あそこで翅が重量感を伴った音を立てて落ちるのがまた憎いのだ。

アントマンは縮小化して小さくなる。しかしそれをアップで撮ると、一見すれば小さくなったか否かは分からない。この禅問答のような問いに、監督のペイトン・リードはしっかりと映像で答えている。小さくなったアントマンが仮にアップになっても、それは「小さいもの」を映すライティングと情報密度そのままなのだ。だから、仮に顔がスクリーンに丸写しでも、その映像から伝わってくるのは「今めちゃくちゃあり得ないくらいにカメラ寄ってるぞ」という感覚であり、「小ささ」演出への飽くなき追求が感じられる。ネズミの唸り声はまるで猛獣のようだし、小さくなれば当然空気中のホコリも大きく見える。しかし飛ばされ叩きつけられたアントマンは無傷で、それを受けた地面の方が割れる。密度は、画面の情報量だけでなくアントマンの体内でも高まっているのだ。





小さくなったからこそカメラを寄せて、そして急にそれを引いてみせる。音の静寂もそれにプラス。アタッシュケースはプールに落ちて、イエロージャケットはトーマスに轢かれる。「なんちゃってデイ・アフター・トゥモロー」な津波や、「なんちゃってダイ・ハード」な市街地(模型)破壊。テンドンのようにそれを畳み掛けるお約束ギャグは、最後にライトに照らされて大きく見える影となり娘に別れを告げる。小さいのは身長だけで(本当は気も小さいし決意も時に揺らぐけれど)、娘への愛は誰よりも大きい。そんなアントマンだからこその“ヒーロー”をしっかり定義してみせた。

MCUのフェイズ1では、「元武器商人が世間に宣言するヒーロー」「モンスターを背負った科学者の自我としてのヒーロー」「神という存在の人間から見た結果的なヒーロー」「偉人であり英雄としてのヒーロー」と、様々なヒーローのオリジンが描かれた。それらが発展した形のフェイズ2では、「銀河を駆けるチームとしてのヒーロー」も登場しつつ、そのヒーローたちの存在意義、本当に必要なのか・むしろ彼らが諸悪の原因ではないのか、といったデメリットの面まで突っ込んで描写された(「エイジ・オブ・ウルトロン」)。そしてフェイズ3ではヒーロー同士の内紛も待ち受けている。

「ヒーローとは」という根本的な存在意義にMCUが斬り込んでいく中で、「娘から見た父親としてのヒーロー」という、それこそ蟻のようにこれまでの誰よりもコンパクトで身内な存在意義が提示され、それがフェイズ2の締めくくりであるという区切りが非常に興味深い。しかも、作品の方向性は陽性に溢れている。だからこそ、「エイジ・オブ・ウルトロン」を単純明快なヒーロー活劇にしなかったMCUの一種のプライドがそこに垣間見える。このタイミングの「アントマン」がこの作風だったからこそ、相対的に「エイジ・オブ・ウルトロン」が持つ方向性としての“決意”が重く感じられるのだ。





「アントマン」はまるで、MCUから差し向けられた「息抜きは済ませたか? 来年はいよいよ内紛やるからな」という手切れ金のような、再度の決意表明文書通知のような、そんな“線引き”を感じさせる作品だった。ここからいよいよ、私たちは本当に覚悟しなければならないのだ。


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