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Channel: YU@Kの不定期村
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徹底原作比較。実写映画「バクマン。」が失った気持ち悪さと再調整の妙

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こんにちは、YU@K(@slinky_dog_s11)です。

元々原作コミックの大ファンだったこともあり、期待と不安が同居していた実写映画版「バクマン。」。主演が佐藤健と神木隆之介とのことで演技面での心配は無かったけれども、あの独特の“味”を持つ世界をどう実写に起こすのか。結果として非常によく出来た作品だったと思うし、巷で言われる“漫画実写化作品”とは確実に一線を画するクオリティだったと言えるのではないだろうか。ただ単に原作エピソードのダイジェストにならないように映画独自の緩急を設定し、ジャンプだからこその「友情・努力・勝利」を全面に押し出したプロット、そして頻出する“オサレ”な演出の数々による彩り。まさに原作を知らない人にこそ観て欲しいタイプの映画だ。

しかしこの映画、原作が持つあの「気持ち悪さ」がかなりのレベルで削除されている。ほぼ完全撤去に近いレベルだ。これは映画云々以前に漫画「バクマン。」として連載初期から語られてきた部分であり、その「気持ち悪さ」は良くも悪くもこの作品の“味”であった。この映画の素晴らしさはすでに多くの人がレビュー記事を書かれているので、私はこの「気持ち悪さ」の部分をメインに原作との比較の観点から感想・解説を書いてみようと思う。(以下、映画のネタバレあり)



■原作が持つ「気持ち悪さ」とは何か

端的に言うと、私の言う「気持ち悪さ」は「痛さ」とほぼイコールだ。例えば原作序盤、主人公であるサイコーとシュージンが屋上で語り合うシーンがある。サイコーを漫画家に誘ったシュージンが、その理由と将来に対する持論を展開するくだりだ。「勉強=頭いいとは思っていないけど、頭のよさだと俺はクラスで3番目には入ってる」「クラスで俺より頭がいいのはサイコーと亜豆(本作のヒロイン)」「『クラスの奴ら馬鹿に見えるか?』という質問は実際にそう思ってないと出てこない」「亜豆はおしとやかに行儀よくしてるのが女の子らしいと分かってて女の子している」。こういった、言ってしまえば“中二病”らしい言説が矢継ぎ早に飛び交うのが原作「バクマン。」の持ち味だ。

また、サイコーと亜豆の恋愛観も「気持ち悪さ」を醸し出す。夢が叶うまでメール等で励まし合って実際には会わない、というルール設定からしてそうだが、「周波数が合ったからお互い同じタイミングで振り返る」「亜豆から意味も無いポエムが送られてくる」「亜豆の冷静過ぎる自己分析による我がままな行動の数々」「売れ出した若い女性声優に彼氏がいるという世間事情を投影したかのような騒動」、非常に悪い意味で胃がキリキリする描写が頻出する。





「バクマン。」の「気持ち悪さ」は、どこか“身に覚えがある”という後ろめたさが一層パワーを強める類のものではないだろうか。中二病とはよく言われるが、特に男の子はある時なぜか「自分以外の周囲が馬鹿に見える」時期が訪れ、「自分は他の人たちとは違う」という主張をしたがる(もちろん皆が皆そうではない)。突然洋楽を聴き始め、飲めもしないコーヒーを飲み、新しい趣味にハマる自分をイカしていると認識し、周囲を見下し自己肯定する理屈を探し、しかし不良やヤンキーにまで身を転じる勇気はない。そんなどこか殺伐とした冷めた自分が“かっこいい”という後年思い出すだけで顔から火が出そうなプライドに、特に男性の方は身に覚えがないだろうか。

大なり小なりそういった感覚を覚え、そこにスクールカーストや将来への夢(進学・就職)といった現実が折り重なって倒れてくる。これがごった煮になってこその「思春期」と言えば聞こえは良いが、どう考えてもあまり如実に思い出したくはない感覚だ。重ね重ね書くが「自分はそんなこと無かった」という人もいると思うし、そのような人は私からすればちょっと羨ましくもあるのだけど、兎にも角にもこの「バクマン。」が描く(原作者:大場つぐみの)様々な価値観は、そのどこか“身に覚えがある”痛さと気持ち悪さが根っこにあるではないかと考える。

中学生ならではの「気持ち悪さ」を抱えた少年たちが、斜に構えた姿勢で漫画家を目指す。そんな、安易にリアルと言いたくないような妙なリアルさが「バクマン。」の“味”であり、連載初期からこの読み心地は常に賛否両論であった。また、思春期特有のアレコレに限らず、今となっては古臭いかもしれない精神論を全面に推し出したり、または夢に破れて女に執着し堕落するキャラクターを描いたり、そこには作劇を超えてどこか精神的に“くる”タイプの「気持ち悪さ」が付きまとっていた。「浮世離れした現実味」とでも言えるだろうか。



■ロマンチック街道と「気持ち悪さ」の需要

実写版の「バクマン。」は、その「気持ち悪さ」を割と徹底的に排除した。サイコーの精神的な師でもある叔父の川口たろうが亜豆の母親と恋仲にあったというくだりも消滅している。原作では、この「互いの夢が叶うまで合わない」という砂糖を5本入れたコーヒーのようにゲロ甘なロマンチック街道が叔父さんの過去として語られ、それが無意識下で脳内にこびりつき半ば倒錯してしまったサイコーが「夢が叶ったら結婚してください」と亜豆にプロポーズして物語は走り出す。その後も度々「叔父さんは“これ”がやりたかったんだね」と彼の恋愛観を見つめ直し、最後の最後には叔父の夢であった「高級外車で婚約者を出迎える」というシチュエーションまで踏襲してみせた。





現代からすれば相当にズレている叔父さんの恋愛観を盲目的に信仰するというサイコーの性格は、実写版では完全にオミットされた。そもそも叔父さんの浮いた話は最初から無かったことになり、「恋人は漫画」という彼の信条が度々強調して描かれる。漫画と生き、漫画と付き合い、漫画と共に死んだ。そんな信念と血と泥臭さの塊のような人間として描かれ、演じるクドカン(宮藤官九郎)の妙な説得力がそのキャラクターに実在感を持たせていた。漫画に殉じた叔父を見習って、泥臭く文字通り血反吐を吐いて漫画を描く。サイコーはそういうある種かなり“分かりやすい”キャラクターに変更されている。

だから、実写版において亜豆に思わず「夢が叶ったら結婚してください」とプロポーズするくだりは、ちょっと前フリや動機が薄く唐突感が否めない。そもそも主役2人が中学生から高校生に設定変更され、“悩みどころ”は単に“将来の夢”に絞られている。「互いの夢が叶うまで会わない」という原作最大の約束も実写版では特に明言されず、浮世離れしたロマンチック街道も封じられた。もちろん屋上での「クラスのやつらは馬鹿」といった会話も無く、斜に構えた様子も描かれず、ただ盲目に真摯に“夢を追い博打をうつ若者たち”という路線にシフトしている。

原作の「バクマン。」は賛否両論な「浮世離れした現実味」を抱えながらも、週刊少年ジャンプ本誌でコミックスにして20冊もの期間連載された。それは、「ジャンプがいかにして作られているか」という内部事情(アンケートシステムの詳細や編集会議など)を次々と暴露していく面白さや、それがそのままジャンプに載っているというメタ的な魅力、作中作として描かれる様々なネタの訴求力に、精神面と努力の世界である漫画界にアンケートと言う徹底的な勝敗を持ち込んだバトル化要素など、かなり複合的に練られた構造がもたらした人気の結果と言える。しかしそれを実写映画にするとして、そっくりそのままその構造を持ってくる訳にはいかない。同作の川村元気プロデューサーはインタビューで以下のように語っている。


川村氏によると、映画館に来場する原作ファンの割合は2~3割という。「大事なのは作品と合っているかどうか。自分が原作ファンの1人なわけで、原作ファンにもいろんな人がいて、いい・悪いって議論は当然あってしかるべきだと思います。でも、原作を読んでいる人の倍以上が映画館にくることが多くて、読んだことのない7~8割の人に『ああ、この原作読んでみたいな』って思ってほしいんです」と明かす。

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プロデューサーを持って言わしめる『映画館に来場する原作ファンの割合は2~3割』という状況がまさに、「気持ち悪さ(=浮世離れした現実味)」をオミットする理由と言えるだろう。原作既読者からも賛否両論だったこのポイントを映画にトレースしたとして、それは確実に『2~3割』“未満”の原作ファンしか喜ばない。それならそこをバッサリと切って、『7~8割』の一般層にも受け入れてもらいやすい「泥臭さも兼ねた友情・努力・勝利」に割り振ってしまった方が絶対に良い。





原作を1本の映画に再構成するにあたって、この「気持ち悪さ」の排除は、あえて白黒つけるなら「正解」だったと言えるだろう。映画も商売なのだから、馬鹿正直に原作をなぞっても仕方がない。ヒットするための再構成として、「気持ち悪さ」は完全に押しやられた。私はこの「気持ち悪さ」も「バクマン。」の魅力だと感じていたので、そこは個人的には残念なのだけど、人によっては「英断」にも数えられるだろう。



■実写化における再調整の全体構造

じゃあ、その「気持ち悪さ」を排除して、代わりに何が詰め込まれたか。それは果てしない「オサレ」だ。全編からほとばしる「エモさ」と「オサレさ」。キャスティングより先に白羽の矢が立ったというサカナクションの音楽や、大根仁監督の撮るキラキラし空気が澄んだ独特の画作り、邦画では前衛的なプロジェクションマッピングの活用や、「漫画家の脳内での戦いをイメージ映像にした」というCGアクションバトルなど、一見水と油のような「泥臭い漫画家の戦い」と「煌びやかでお洒落な演出」を見事に両立させてみせた。確実に『7~8割』にウケるのは、言うまでもなくこっちの方である。

原作におけるサイコーとシュージンの共同ペンネーム「亜城木夢叶」も登場せず、名義は2人の連名になっている。そのペンネームを命名し後にシュージンの妻となる高木香耶や、熟練アシスタント出身の中井さんに天国と地獄を見せた蒼樹紅も登場しない。「ジャンプは漢の世界」とでも言いたげなマネージャー不在のスポ根のように料理された「バクマン。」の物語は、本当に文字通り「友情」で「努力」して「勝利」する構図になっている。原作ではこの三原則を斜に構えて評してそれでもメタ的にそこに落ち着くという構造だったのだが、映画では非常にストレートにここを描いている。





「気持ち悪さ」を排除し、直線的なまでに精神論で「友情・努力・勝利」を求め、それを高次元の「オサレ」でまとめ上げる。一般向けに再調整された映画「バクマン。」は、「亜城木夢叶」を排することでそれを可能にしてみせた。斜めでも何でもない、ただ真っ直ぐに、真っ直ぐに、努力で汗と血を流す若者たちの奮闘。キレッキレな演出の数々が逆説的に根性臭さを強調していく。非常に明確な意図を持って調整された作品だと感じている。

連載作家がアシスタントの1人も抱えていないのはおかしいとか(後の「友情・努力・勝利」展開を強めるための措置)色々とツッコミ所もあるものの、「スラムダンク」オマージュのような“燃え尽きてあっさり負ける”ラストや、新妻エイジのペン入れにツーっと涙を流すサイコー、悪い意味で日本人気質なブラック精神で勝ち取る掲載権(それがむしろ良い)、ワクワクさが止まらない冒頭のジャンプ紹介シーンと映画史に残る画期的なアイデアで作り上げられたエンドロールなど、非常に光る部分が多い映画「バクマン。」。原作を知らない人にこそ観て欲しいと最初に書いたが、むしろ原作を知っている人にこそ、この再調整の“味”をスクリーンで確認してほしいと思う。


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