Quantcast
Channel: YU@Kの不定期村
Viewing all articles
Browse latest Browse all 177

Twitterのフォロワーが3,000を超えてブログが月間50万PVを記録しても現実はちっとも豊かにはならない

$
0
0



こんにちは、YU@K(@slinky_dog_s11)です。

現状、私のweb周りは表題のようになっている。映画や特撮の感想を気ままに呟く趣味のTwitterアカウントがフォロワー3,000を超え、今あなたが読んでいるこのブログは先々月(2015年8月)に初の月間50万PVを達成した。その翌月は42万ほどだったけど、1日1万PV超えのこのくらいで安定してきている。自慢に聞こえるだろうか。すみません、ちょっと自慢しました。でもそういうことを言いたいんじゃなくて。


端的に言ってしまうと、結局これらの数字って「承認欲求を満たす」という意味でもほとんど意味を持たないんだな、ということが最近分かってきた。数字が伸びれば伸びるほど、上が見えてくる。もっとアクセスを記録しているブロガーが羨ましく見える時だってあるし、どの話題を選べば炎上して数字が稼げるかも見えてくるし、とにかくめちゃくちゃにフォローしてフォロワーを増やしたい衝動に駆られる時もある。つまり、承認欲求にゴールはない(承認欲求自体は悪いことだとは思わない)。そして、「うんこ」と呟いたらそれが半強制的に3,000人以上の目に入る素敵な環境を手に入れても、生活は何も変わらない。仕事をして、家に帰って、夫婦生活を送って、寝て、また朝を迎える。それだけ。

一時期はこれらの数字を伸ばすことに躍起になっていたけど、最近はそれもどうなんだろう、と感じてきた。もちろん、ブログに広告を貼って収益化している人はアクセスに変化があればそれも変動するので一種のメリハリが生まれるのかもしれないが、このブログはそれを全くしていない。50万人に読まれても、「書く手間」と「満たされるも餓える承認欲求」だけがそこに残る。飼われるハムスターのように、ひたすらにその歯車をこぎ続けるだけ。

でも何かを表現したいから、それを読んでくれる人がいることが何よりも嬉しいから、今日もキーボードをカタカタする。単純に、文章にすることで咀嚼が進み、自分の理解度が深まる、という面もある。レビューを書いた映画とそうでない映画とでは、やはり1年も経つと記憶がダンチだし、思い入れも違ってくる。そういうことなのか。そのためだけに書いているのか。最初は「書きたいから書く」だったし今もそれを信条にしているつもりだけど、下手に数字が伸びるとその「書きたいから書く」の深淵を覗きすぎて迷子になってしまうような感覚がある。


Twitterやブログで私の文章を目にしてくれる人がどれだけいても、嫁の機嫌を損ねる時は損ねる。いくらありがたいことに文章を褒められても、嫁との仲直りの言葉すら満足に出てこない時だってザラだ。偉そうに何かを語っても上司に叱られる時は叱られるし、ネットで得た気になっている知見は実はそのほとんどが役に立たないんじゃないかと思う。いくらリツイートしても、いくらはてなブックマークをつけても、その他人の知識と経験はそう簡単に自分のものにはならない。しかし、その錯覚だけは身に付いていく。

ネットで自己表現をしてその肩書きがそのまま実生活と繋がっている人は、確実に人生が“動く”だろう。しかし、ご多分に漏れず私も日本人が大好きな“匿名”の面を被っているので、そのディスプレイの向こうでどれだけ結果が出ても実生活には何の意味も無い。むしろ、気を緩めればインターネットでの無価値な名声にばかりのめり込んで、肝心の実生活が疎かになりそうな気さえする。

そう考えると、ネットの数字は、デメリットの方が多いのかもしれない。数千もリツイートされたからといって金は降ってこないし、ブログがバズったからといって昇進する訳でもない。しかし達成感と優越感だけは歪んで歪んで形成されていく。そんなトムとジェリーが本当は仲良しなくらいに当たり前な事実を、ネットを続けていくと、分かっているつもりで分からなくなっていく。「分かってる。こんなの虚構だ」と、今の私のように自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、その無意味な数字に憑りつかれていく。


私のようにブログを書くに限らず、ネットで何かを発信している人は、大なり小なりこの渦の中にいると思う。絵を描いて投稿している人、自作小説を公開している人、動画を作っている人、PVとバズと閲覧数とリツイートの渦の中で一喜一憂して、段々と自分が沈んでいることに気付いていない。結局どこよりも向き合わなくちゃいけない現実は何も変わらないのに、必死で沈んでいないふうを装う。余裕ぶる。「所詮ネットだから」。言い聞かせている段階ですでに“沈んで”いるのに。

ただ、ネットで得られる数字は物理的なリスクが軽い。世間一般から言うと、お金をかけてはいないからだ。そこには自分が自分で持っているとされるセンスと経験と、あと運だ。だからこそ、安易にその渦に浸れるし、中毒性から抜けられなくなる。ネットにおける数字の渦は、本当に厄介だ。

そこで最近思うようになったのは、ネットで得られるプラスの感情とマイナスの感情を、どこで帳尻を合わせようか、というもの。例えばブログがバズって嬉しいといったプラスの感情は、どこかで必ずマイナスなそれと出会うだろう。足してちょうど0になるように人生はできていると、小学生の時に担任の先生から聞いた。私は最近それを、現実と横並びに捉えるようになってきた。ネットで経験して良かったことは、現実での悪い事態とプラマイ0。ネットで溜めこんだマイナスな感情は、現実の楽しい出来事とプラマイ0。そうやって、気付けばネットに沈みがちな自分の感覚を、なんとか現実と紐付けしている。

ネットでのプラマイを同じネット内で求めて、あまり良い結果になるイメージはないし、実際に痛い目も見てきた。“バランス”は、パソコンやスマホの向こう側とこっち側との全体で調整していった方が良いと、思うようになってきた。だから、ネットで変なのに絡まれたりまたはついつい野次馬根性丸出しで絡みたくなっても、「その分現実も左右されるかもよ」という些細なブレーキが効くようになってきた(ような気がする)。

なぜか少し深刻な雰囲気で書いてしまったけれど、要は「ネットにハマりすぎても(そこで一定の数字を得ても)あんまり何も変わらないよ」ということを言いたかった。「そんなの分かってる」「何を今更」、そう、その通りです。あなたの頭に浮かんでいる通りです。でも、私もそれを分かった気になっていたような気がする。うーん、取りとめが無く歯切れも悪くてすみません。でも、「あんまり変わらない」からこそ真剣になる時もあるし、だからこそ気軽にやれる時もある。「うわー、ネットに沈んでるよ自分」と自己分析しながらも、それが脛なのか膝なのか常に観察して、気付いたら肩までなんてことにならないようにしたいな、と。ネットに、私の戸籍謄本は置いていないのだから。


※映画・特撮の感想など、全記事一覧はこちら
【Twitter : @slinky_dog_s11 】【はてなブックマーク : slinky_dog_s11 】【LINE : @fgt3013f

【過去記事】
徹底原作比較。実写映画「バクマン。」が失った気持ち悪さと再調整の妙
仮面ライダーゴースト 第1話「開眼!俺!」【週刊ライダー時評 ゴーストウォッチメン】
映画「アントマン」のここが惜しかったからお茶をください角砂糖は結構です!
【総括】仮面ライダードライブが体現した平成ライダーの限界とはなにか

Viewing all articles
Browse latest Browse all 177

Trending Articles