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『ポケモンGO』が流行った理由は、体が頭が知っている

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こんにちは、YU@K(@slinky_dog_s11)です。

私は自分のことを素直な性格ではないと思っているので、この大流行中のゲームアプリ『ポケモンGO』についてブログで記事を書いたらどこか“負け”のようにも感じていたのだけど、それでもちょっと思うところをこぼしておきたいような、そんな気分に苛まれて今これを書いている。…というのも、いやはや、単に「すごいなあ」と。要はこれだけなのだ。これ以降に書いてあることは、おそらくこのアプリで遊んでいようがいまいが10人中10人が「なにをそんな当たり前のことを…」と思ってしまう内容だけども、つまりは「ポケットモンスター」というブランドがこの20年間何をやってきたかを思うと、“世代”としてはどうしても振り返りたくなってしまうのだ。

結論から書くと、「通信で対戦&交換ができる!」がウリだった赤緑のころから、ポケモンというゲームはずっと「外向性」をひとつのキーワードにしてきた。つまり、ゲームはひとりでじっくりやる“だけ”のものではなく、友達や兄弟と一緒にやってもいいんだと。それも、同時にファミコンが繋がれた画面を見るのではなく、各々がデバイスを持ち、各々の画面を見ながら、でも“同時に”遊んでいる。この形を、結局のところ ずーーーっと 推し進めてきた“だけ”なのだなあ、と。「公園に集まってゲームをやる」という図式は、改めて考えると非常に面白い。

通信ケーブルに始まり、ポケットピカチュウもそうだし、ハートゴールド&ソウルシルバーの時に同梱されたポケウォーカーも同じ志向だ。“ゲームが目の前の画面だけで完結しない”、それが、ポケモンがずっと挑戦してきた「外向性」であり、それは依然変わりなく、今度は『ポケモンGO』という舞台で炸裂した。





更に言うと、このアプリがすごいのは、ゲーム自体に目的説明がほぼ無い上に、操作説明すら満足に無いという点だ。それはなぜかというと、「ポケモンという世界観はモンスターボールを投げて野生のモンスターを捕獲し図鑑完成を目指すもの」という前提条件が世界中ですでに共有されているからだ。いや、当たり前なのだ。今これを読んでいる全ての人が「そんなの当たり前だろ」と今にもブラウザを閉じようとして、しかもここ数日で同じ論旨での褒め感想は世界中に溢れていて、私もそれを腐るほど目にしたけれども、それでも、それでも今一度自分でこうやって書きたくなるくらいに、単純に「すごい」と思うのだ。

だって、「ポケモンという世界観はモンスターボールを投げて野生のモンスターを捕獲し図鑑完成を目指すもの」って、このブランドに飼いならされた自分たちには1+1=2にも等しいくらい当然のルールだけど、改めて考えたら狂気の世界に他ならない。野生生物を自己都合で捕獲して図鑑の完成を目指す …って一体どういうことなのかと。図鑑って普通は“本”なのに、今や誰もが「捕獲すればデジタル図鑑に自動登録される」ことは知っているし、そこに何の疑いも抱かない。勝手に野生生物を捕獲して良いのか、その倫理的な問題にも、誰も“今更”何も言わない。モンスターボールって一体何なのか。なぜ紅白の球で野生生物を隷属できるのか。そこへの疑問はなくとも、それでも世界中の人間が“キュウン!”という音と共にあのボールが肥大化する様を知っているのだ。「そういうもの」「そういう世界観」「そういうルール」として、完全に成立している。





いや、本当に、マジで、単に「あたりまえのこと」しか言っていない。これは何も目新しくもない記事だし、これ以上読んでいただいても大して面白くないことを保証したい。しかしそれでも、今一度じっくり考えたくなるというか、ついつい感慨深くなってしまうのだ。“これが全世界にこのレベルで浸透しているのって、すごくない?”。いやすごいでしょ。半端じゃない。

しかも、作中世界観とゲームシステムのダブルで「外向性」をずっと推し進めてきたからこそ、世界中の人間が何の疑いもなく野外に繰り出す。スマホひとつが、これだけの人間に靴を履かせる。日本においては、この炎天下に外に繰り出させる。お金がもらえる訳でも、何が得られる訳でもなく、“動く絵”を求めて数時間も外をうろつく。いやはや、当たり前だけど、本当につまらないくらい当然のことなのだけど、やっぱり「すごい」って、ただただそう思うのだ。

近所のジムスポットを通りがかったら、年配の夫婦が車を路駐させ『ポケモンGO』に勤しんでいた。マクドナルドに行くと、高校生の集団が「やったー!卵が出た!」と叫んでいた。スポットが多い通りを車で通りがかったら、見るからにポケモントレーナーな人たちがスマホ片手にズンズンと歩き回っていた。私が住む辺鄙な片田舎でもこんなに分かりやすく流行が目に見えるのだから、都会は比にならないのだろうな、と。私もこれまで心のどこかで少なからず「スマホのガチャってただの絵なのになんで課金してまで買うんだよ…」と思っていたけれど、阿呆面で手のひら返して「フシギダネが近くにいるぞ!おい!お香!お香買うか!?」と鼻息を荒くしてしまう。不思議なくらいに、飼いならされている。





ポケモンってすごいなあ、本当に。マジでもう本当にただそれだけを徒然と書いているのだけど、どこまでいってもこれに尽きる。言わずもがな、これが全く同じシステムで『モンスターファームGO』だったらこんなに流行る訳がないし(個人的にはやりたいけれど!)、『デジモンGO』でもこんなに流行る訳がないし(個人的にはやりたいけれど!)、『妖怪ウォッチGO』だったら子供たちにしか流行らなかったのだろう。『妖怪ウォッチGO』では、ジムスポットに路駐する夫婦を生み出すことはできない。

20年かけて積み上げられたポケモンのブランドパワーそれこそが、今まさにアプリという形で火を噴いている。「野外で野生生物を捕獲するゲーム(物語)」という世界観を、その作中設定としての知名度、そしてゲームシステムとしての「外向性」、両面で20年間コツコツと積み上げてきた。このまま『ポケモンGO』が大流行を続けるのか、一時的なもので落ち着くのかは、私には予想がつかない。しかし、つい先日野生のフシギダネに逃げられてしまった時のあの焦燥感・喪失感・怒りの感覚は、「飼いならされてきた」からに他ならないのだな、と。ただただ、そう思うばかりである。

結局なにが言いたいのか分からないって? 「すごい」ってことですよ。


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深・考察、『シン・ゴジラ』 ~ゴジラはなぜ“ゴジラ”を逸したのか

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こんにちは、YU@K(@slinky_dog_s11)です。

どうしても外せない仕事の都合で公開日に駆けつけることが出来ず、ネットを含む全ての情報をシャットアウトして、翌朝一番に劇場に乗り込み、終了後すぐに午後一番の回の座席チケットを発券し、帰宅してからはサントラを流しながらパンフやムック本を読み漁り、そうして少しずつ、自分の中にやっとこさ馴染んできたような気がする。12年ぶりの国産ゴジラ映画こと、『シン・ゴジラ』。何から語れば良いのか皆目見当がつかないくらいにビビッドな作品だったが、ひとつずつ、この映画の“角度”に向き合っていきたい。






※以下、本作のネタバレがあります。



◆「シン」、24連発


まずはベタに、タイトルにてあえて片仮名で記された「シン」の解釈について、思うままに書き並べてみようと思う。それがつまり、前述の“角度”を列挙する作業になるだろうから。


「真」…言うまでもなく、「真のゴジラ」の意。本作がなぜ「真のゴジラ」なのかについては、考察を後述。
「神」…まさに神のごとき“人智の超えっぷり”であったし、圧倒的に話の通じないヤツだったことは間違いない。これを神の断罪と取るか否かは、解釈が分かれるか。
「震」…これまた言うまでもなく、東日本大震災を経験した今の日本に響く文字。押し寄せる濁流から逃げる人々を捉えたのは、嫌らしいくらいにストレートであった。
「信」…未曾有の大災害ことゴジラに対し、迎え撃つは日本人の「信念」。そして、「私は部下の報告を信じるだけです」が印象的。
「進」…ビルをなぎ倒して進む様は、まさに「進撃」。樋口監督のクレジットも含めて。
「親」…「肉親」という意味では石原さとみの役どころが印象深く、また、あのゴジラのちぎれた破片が後に“子ゴジラ”に変態&増殖するかもしれない恐怖感もあった。
「審」…「審判」と書くと前述の「神」にも通ずるが、行方不明となった教授のエゴ的な解釈を「審判」と取るか否か。
「伸」…スクラップ&ビルド、日本はどんな窮地からもまた「伸びる」ことができる。ついでに、ゴジラの腕も変態と同時に「伸びる」。
「芯」…決してブレない「芯」こそが、「諦めず、最後までこの国を見捨てずにやろう」なのだ。
「深」…「意味深」に徹したのは例の教授であり、彼の最期(?)は結局明かされないままであった。
「紳」…どんな窮地でも、あくまで「紳士的」に。「矢口、まずは君が落ち着け」。
「寝」…「寝」ずに頑張った日本人と、「寝」て力を溜め込むゴジラ。
「辛」…言うまでもなく、「辛い」出来事であった。
「侵」…日本人が築き上げた文化を盛大に「侵された」のは間違いない。
「津」…「震」と同じく、こちらも先の震災を思わせる解釈。
「森」…印象的なのは、ゴジラ第四形態出現時。手前に青々と茂る木々の群れ。
「唇」…石原さとみの印象的な「唇」、というのは少々無理があるか。
「沈」…「沈黙」するゴジラと、それを許されなかった日本人。
「針」…まさに「針」のごとき熱戦攻撃。多数の“ハリセンボン”が米軍機を焼き払う。
「請」…「請う」たのは、核使用カウントダウンの延長。総理代理、渾身のお辞儀。
「診」…「診察」なんて、当然のごとく受けられない。「医療品はどこも品切れ」。
「浸」…海底トンネルへの「浸水」が全ての幕開けであった。
「臣」…「大臣」の奮闘、そして数多の死。
「新」…今作のゴジラは、完全なる「新しいゴジラ」であった。「真」と並び、こちらも後述。


…などなど、酷いこじつけも含めて、思いつくのは取りあえずこんなところだろうか。こういう考察遊びを提供してくれる、面白いタイトルだと思う。



◆巨大ラブカが体現する「真のゴジラ」


本作を鑑賞した人の多くが目を丸くした、ゴジラ第二形態。「ゴジラはいつもあのゴジラの姿で登場する」という我々の先入観を引っ叩くかのような展開に、もう少しで「えっ?」と声が漏れるところだった。その数分前の第一形態の尾からして「あれ、少し予告で観たのと質感が違うような…」と思いつつ(水しぶきで誤魔化しているのがまた上手い)、そして市街地に入ってからは「背びれは分かるが事前情報とサイズ感が違うぞ…」となり、そしてドーンとあの丸い目のヤツが登場してしまった。

一瞬で頭がグルグルし、「あれ、こいつはまさかVS怪獣?」「それともゴジラの子供?こいつを殺されて怒って来るのか?」「それとも捕食対象?」と選択肢を挙げては潰し、そうして「あ、違う、こいつが間違いなくシン・ゴジラだ」と思考が間に合ったタイミングで、気持ち悪いアイツは立ち上がりを見せた。

パンフレットにも記されているように、イメージとしてサメの一種である「ラブカ」という生物が使われている。改めて見てみると、丸々した眼やエラの形状など、確かにそっくりそのままである。








バンダイ商品ページより


全く不謹慎な話だが、太平洋岸に生息するラブカが巨大化して東京を襲うという妄想をしてしまった。ゴジラの原作者の香山滋の遺作『ガブラ 海は狂っている』は、公害で怪物化したジンベイザメだった。 pic.twitter.com/afH8QQ5fvp

— Pio (@pioilbevitore) 2014年3月9日

▲余談だが、Twitterで検索してみると2014年の時点でこんなツイートをしている人がいた…。あなたが預言者か…。


この第二形態ショックは、確かにゴジラファンであればあるほど度肝を抜かれる作劇であり、多くのファンが口をあんぐり開けてしまったことだろう。しかしこれは同時に、本作最大の肝というか、ゴジラそのものの定義に干渉する仕掛けとして機能している。つまりは、今や国民的スターと言ってしまっても過言ではないゴジラというキャラクターについて、シリーズのファンでなくとも、皆が皆、何かしらの「イメージ」を持っているのが現状だ。ゴジラは戦争や核のメタファーか、怪獣プロレスの担い手か、災害か、ヒーローか、ヒールか、怨念か、怪獣王か。そういった無数の人が持つ「既存のゴジラのイメージ」を、第二形態の登場で一気に白紙にする。「なんなんだこいつは!?」という、驚きと戸惑いに、強制的に統一してしまう。

そうすることで、偉大なる一作目の『ゴジラ』同様、我々は“これまで観たことのない巨大な生物”と対面することが出来るし、矢口をはじめとする登場人物たちの戸惑いと共通項を持つことができる。雑誌のインタビューにて樋口監督は「これまでのゴジラ映画は一作目の『ゴジラ』に囚われすぎていた」という旨を述べていたが、つまりは「ゴジラという生物が存在すること」が、作り手・観客・作中登場人物の多くの中で“前提”になってしまっていた。それほど、初代『ゴジラ』が偉大であり、“くさび”でもあったのだろう。





だからこそ、12年ぶりに新しいゴジラを創造するにあたり、既存のゴジラ像をなんとしても破壊する必要があった。「これまでのゴジラ」が持っていた“くさび”こそが、シリーズを12年も中断に導いてしまったかもしれない要因だからだ。ゴジラが、“ゴジラを逸した姿”で登場する。言ってしまえば、たったこれだけで、既存のゴジラのイメージを白紙に戻すことが出来るのだ。とはいえ、生理的な「キモさ」を持ち合わせるあの姿にゴジラを「貶める」(あえてこう書く)というジャッジは、言うまでもなくゴジラを愛好するであろう庵野総監督&樋口監督にとって、心からの挑戦だったのだと察したい。

加えて、我々は自然と、矢口たち登場人物と同じ高さの視点を獲得する。これまでのゴジラ映画では「ゴジラが出てきた、さあどうする」という“シリーズを知っているからこその神の視点”で登場人物たちを(無意識に)見下ろしていたが、本作では巨大ラブカショックによりそれが撤廃され、彼らと同じ「困惑」に浸ることができた。だからこそ、彼らの家族構成やバックボーンをほとんど知らなくとも、心から応援し一緒に何とかしたいという気になるし、自衛隊をモノともしないゴジラに根元的な恐怖心を抱くことができる。過去のゴジラが熱線を吐けば「キターー!!」だったが、本作では矢口同様に「おいおいおい、もうやめてくれ…マジでやめてくれ…」と祈るような表情で顔を引きつらせることが出来る。





重ね重ね、言ってしまえばひとつのアイデアだけ、「ゴジラを“進化前”から登場させる」、これだけである。しかし、このワンアイデアだけで、初代『ゴジラ』がもたらす未知の衝撃を60年以上もの未来で再現し、観客の既存のイメージを白紙にし、シリーズが中断したかもしれない要因を洗い出し、観客に登場人物たちと同じ高さの視点を持たせ、人間ドラマを排除しての「対、不明生物」に絞った作劇に説得力を持たせることを可能にした。ただの「騙しの手品」に過ぎない、大きな大きなワンアイデアである。所見時はこのインパクトに思考回路がやられてしまったが、二度目の鑑賞でその計算されたトリックを堪能することができた。

よもや、ゴジラに「キモい」という感想を抱くことになろうとは…。



◆CGで表現される「新しいゴジラ」

方々のインタビューを読んでいると、割と早い段階から「新しいゴジラはCGでいこう」ということでスンナリ決まっていたようだ。新しいゴジラが着ぐるみかCGかはここ数年の特撮オタク間にて絶えない論争ではあったが、特撮博物館を手掛けたペアだからこそのジャッジと言うべきか、CGが採択されている。というのも、(ここからは私の持論だが)、そもそもの話として着ぐるみとCG、もっと言えば、特撮とCGが対立構造で語られること自体がおかしい話であり、「特殊撮影」の定義に立ち返るなら、CGはそこに内包される単なる一手段であるのだと主張したい。

ただ、同時に、別に老害じみた「着ぐるみの温かみが~」という文言を使うつもりはないが、実際の文化として『ゴジラ』や『ウルトラマン』シリーズで旧来から採択されてきた「着ぐるみ&ミニチュア」という一手段の息が長かったために、言語上の定義ではなくひとつの文化として、「着ぐるみ&ミニチュア」を「特撮」と解釈できる土壌は、確かに存在するのだと思う。後発の手段として出てきたのがCGなので、結果的に一部では対立構造のように語られる、と。それをあえて「特撮」ではなく「とくさつ」と便宜上表記するのならば、「特撮とCGの対立」は無くとも、「とくさつとCGの対立」構図は必ずしも“無”ではないのではないだろうか。単純に、「どちらの手段が好きか」という好みベースの対立であり、それは「きのこの山とたけのこの里のどちらが好きか」と同じ次元の話である。





本作に関するいくつかのインタビューを読むと、「着ぐるみ特撮は、一種やり尽くした」というニュアンスで語られている場面がある。『ゴジラ FINAL WARS』から12年、CGという手段があの頃とは比較にならないほど進歩した今、果たして改めて「着ぐるみ」という手段を採択する意義はあるのか。「とくさつ」という方向性では意義があっても、「特撮」の根元的なベクトルにおいて「とくさつ」を“また”推し進める必要はどこまであるのか。12年という月日の中で、観客の眼は肥え、外国産のCGによるゴジラが日本でもある程度ヒットしてまだ日の浅いこのタイミングで、果たして「とくさつ」か、「特撮」か。「やり尽くした」のは、果たして作り手だけの問題なのか、観客が求める“画”も込みの話なのか。

そういう、クッッッソ面倒くさいオタクトークはいくらでも繰り広げられるのだけど、結論として、今回の『シン・ゴジラ』ではモーションキャプチャーを含めたCGが採択されている。だからこそ第二形態にあれだけおぞましく気持ち悪い動きを持たせることも出来たのだろうし、背びれを5本並べることも出来たのだ(通常ゴジラの背びれは3本だがそれは着ぐるみのチャックの関係で、CGでやるなら関係ないと樋口監督が東宝と交渉を重ねたとのこと)。CGでやるからこそ下顎も割れるし、何よりこれまでの着ぐるみでは実現不可能だったアングルも多用されている。ただCGを採択しただけではなく、CGだからこその旨味や面白さを追求した“新しいゴジラ”に仕上がっていた。


(関連記事)
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もっと言うと、(これは私自身も「とくさつ」が好きな一人であると表明し唇を噛みしめながら言うのだけど)、この2016年に「着ぐるみとミニチュア」でゴジラをやったとして、どれだけ一般のお客さんが“こちら”を向いてくれるかといったら、かなり厳しいと思うのだ。これはもう、どうしようもなく、正直な感想として。だからこそ、“そうでない”手法を今このタイミングで選んでおくことが、「とくさつ」ではなく、「特撮」を永く生きながらえさせるための唯一無二のジャッジだったのかもしれない。そうであるとするならば、本当に難しいのは、この『シン・ゴジラ』に続く「ネクスト・ゴジラ」なのだ。



◆ゴジラに見る「スター・ウォーズ」の影

製作期間を考えると単なる偶然の産物だとは思うが、私が『シン・ゴジラ』を観た直後に思い起こした映画は、昨年末に公開された『スター・ウォーズ / フォースの覚醒』であった。どちらも「長い時を経て新作と相成った大御所シリーズ」という恰好だが、成果物としても、「多少過剰なまでのシリーズファンサービスがありながらも、それに頼りすぎず新しい魅力を打ち出す」というバランスになっていて、海を越えてのクリエイターたちの答えの出し方に非常に興味深いものを感じた。





どちらも、そもそも「製作する」という事実だけで、ファンの間では論争が起きるレベルのシリーズだ。そうして、「どうせなら作らないでくれ」というまたもやクッソ面倒臭いオタク心理もありながら、同時に、「でもいざ作るんなら観ない訳にはいかない」訳で、期待と不安に押しつぶされながら、届く情報に逐一一喜一憂して公開日を迎える類の話だ。もちろん、ゴジラとスター・ウォーズでは規模は違うが、そういう“愛ゆえの面倒臭さ”を内包する2つのシリーズが、この約半年のスパンでそれぞれ新作を公開し、同じような答えを持って形作られているのは、とても面白く感じないだろうか。


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『シン・ゴジラ』は、前述のように初代『ゴジラ』から脈々と続いてきた“くさび”を解放しつつも、同時に、この上なく初代へのリスペクトを掲げている。それはもう、特濃つゆだくである。使用劇伴は言わずもがな、数々の演出や、造形ひとつ取ってもそれを感じることができる。かといってただそれだけに終わるのではなく、それもありつつも、新しいゴジラ。CGもそうだし、第二形態や第三形態といった変態要素も含め、そしてまさにエヴァの使途のようにファンタジックに東京を火の海にしてしまう様は、誰もが知っているゴジラのイメージとは全く異なるものであった。





本作は、前半がリアルシミュレーションとしての巨大生物との対応を描きながら、東京が火の海と化す中盤の“シンゴジ大暴れ”あたりから、いつの間にかリアリティラインがフィクション側にずれ込んでいくような感覚がある。とはいえ、ああいう生物と人智を超えた大暴れこそが“くさび”を外すひとつの方法論であり、ここまできたら我々は彼らの行く末を固唾を飲んで見守るしかない訳で、仮にリアリティラインが多少ずれようとも、すでに惹きこんでしまえば全く問題ナシなのだ。

そういう面は本当にロジカルに組まれていると思うし、序盤の衝撃の第二形態披露と中盤のビーム熱線初披露でそれぞれ予告で使われていた「Persecution of the masses (1172)/上陸」「Who will know (24_bigslow)/悲劇」を流したりと、観客が覚える盛り上がりポイントをしっかり計算して造っていると強く感じることが出来る。予告で流れたテーマが、ちゃんと見せ場で流れるのだ。ベタながら、王道の組み立てである。

そういう「観客の盛り上がりをちゃんと計算して誘導する」という意味ではこれまた『スター・ウォーズ / フォースの覚醒』にも見られた方法論であり、ファンを満足させながら、シリーズ初見&一般客の鑑賞にも耐えうるバランスに調整し、それでいて、どこまでいっても「純なエンターテインメント」という殻をしっかり被っているからこそ、素晴らしい。『シン・ゴジラ』は『フォースの覚醒』に比べたら監督色が割かし濃く映っているけれども、それでも、私は自信を持って「ゴジラもエヴァも何も知らない人にこそ観て欲しい」と勧めることが出来る。これらの映画の作り方は、長期シリーズリバイバルにおいての一種の模範解答として、ケース登録できてしまうのではないだろうか。(加えて、『ジュラシック・ワールド』にも近いことが言えるだろう)



◆どこまでも愚直に、「がんばろう日本」

庵野総監督は、常人のそれとは色々と違う。めちゃくちゃに極端な例を挙げれば、私を含め、その辺の人にあのエヴァは造れないだろうから。そういう才を持ったクリエイターが、カットひとつひとつに病的なまでにこだわって作ったこの『シン・ゴジラ』において、その演出意図を秒単位で読み解く楽しさはあれど、ひとつだけ、馬鹿正直にストレートに“置いた”ポイントがある。それは、つまる所「がんばろう日本」に帰結するテーマ性だ。

本作は、ゴジラという未曾有の大災害が襲来し、それに翻弄されつつも対抗する日本人の維持とパワーを見せつける構図になっている。仮に作り手の全員が否定したとしても、今このタイミングで観るそれは明らかに東日本大震災を経験した日本のイマと重ねざるを得ないし、そこから立ち上がってきた日本人を賛美する意図が無いとは決して言い切ることが出来ないだろう。「スクラップ&ビルド」とは劇中の言葉だが、まさに文字通りのビルドを重ねてきた2016年現在の日本。その環境下で、ゴジラに対しては法が整備されておらず、想定もしておらず、火器は通用せず、それでも「もがき」、我らが日本を“最後まで諦めず見捨てない”その姿は、「ど」が100個はつく程に「どストレート」に、響く。





特に序盤の政治家たちの判断は結果だけ見れば役に立っていないが、「なぜ役に立たないか」が徹底的な取材の上で描写されている。決定機関があり、決裁者があり、自衛隊の目的があり、日本人としての優しさからくる甘さや、時に希望的すぎる楽観論が飛び交う。それは、ストロングポイントにもウィークポイントにもどこまでいっても正直すぎる「日本人」で、縮小図として私の職場で見かけてしまう光景ですらある。だからこそ、「ああ、日本人だなあ」と、時に胃を痛めながら、それでも頷きながら、そうして次第に、ただ純粋に主人公・矢口を応援したくなる。彼が、日本人としての弱さと信念を“後者寄り”で併せ持つキャラクターにチューニングされているからだ。

そりゃあ、上手くいかない時の方が多い。持論を述べれば空気を読めとたしなめられ、ズバっと決定してくれない上司に憤り、睡眠時間を削ってでも奮闘するのはいつも現場だったりする。別に残業が美徳だなんて言わないが、そういう、良くも悪くも「日本人しぐさ」に溢れたキャラクターたちが、「日本サイコ~」でも「これだから日本人は…」でもなく、「そうだよな、日本人、頑張れるよな」という純なる応援歌なニュアンスに着地する。常人を逸したセンスを振るう庵野総監督が、何よりも常人に寄り添ったテーマを正直に力強く打ち出す。ここだけは、斜め上も捻りもトリックも騙しも、何もない。ベタに、真っすぐに、ひとつずつ、確実に。だからこそ、後から後からこのテーマこそが響いてくる。

もはや、あえて言うならば耳にタコが出来るかもしれない「がんばろう日本」というスローガンが、あろうことか“くさび”を切り離したゴジラにて、痛感させられる。ゴジラは誰よりも“主演”のはずなのに、私にはむしろこんなにも「ゴジラに主役っぽさが無いゴジラ映画」を始めて観た気がする。だって、間違いなく頑張っていたから。我々と同じ日本人が、我々と同じように頑張っていたから。どうしようもなく愚直なこの描き方が、『シン・ゴジラ』の真骨頂であり、だからこそエンターテインメントに溢れた一作だと主張したいのである。ゴジラだの特撮だのエヴァだのを超えた普遍的なエンタメ性が、確実に“ここ”にある。





そうして、あれだけ観る前までは「ゴジラ~エヴァ~特撮~着ぐるみ~CG~」と面倒な渦にハマっていたのに、鑑賞後は一瞬“そんなの”が綺麗に飛んでしまっていた。作品そのものに、そういった舞台装置を視界から外すパワーがあった。「うわあ、すごいもん観たな」、と。ゴジラの定義論なんてのは、すっかり頭から抜け落ちてしまうのだ。

つくづく、ゴジラが“ゴジラ”を逸したのだと、気付かされる。そして、それがどれほど難しいことだったかは、それこそゴジラゴジラうるさかった我々特撮オタクこそが知っていたはずなのに。これまでのゴジラ映画で幾度となく感じた「がんばろうゴジラ」は、本作では一秒たりともよぎらなかった。



◆消えた教授の謎とラストの尾が示唆するもの

本作の主テーマについて持論を語り終えたところで、最後に、まさに考察しがいのある数点について触れておきたい。

ひとつは、今回のゴジラの出現を予見していた牧教授に関して。彼が失踪したポイントとゴジラ第一形態が突如して現れた地点はほぼ同一と推測され、明かされた彼の私怨を考えるに、彼こそがゴジラの正体だったのではないか、と考えることもできる。が、完全にラブカじみた水棲生物の第二形態、そして、諸悪の根源とされる核廃棄物にはしっかりと歯形がついていたことから、教授がゴジラだというオカルト的な解釈は、個人的には難しいと思っている。あえて言うならば、ゴジラは牧教授を後天的に取り込んだからこそ、直立二足歩行のDNAをその身に有した“レベル”が関の山ではないだろうか。(教授はそれを目的として身を投げたという解釈も出来る)





もうひとつは、ラストカットのゴジラの尾について。明らかにそれと分かる人型が成型されており、それは前述のように牧教授を取り込んだからか、はたまた、完全生命体と称されるゴジラの進化の行く末が遂にヒト(またはそれに類する新たな生態系)にまで達する寸前だったのか、それは定かではない。頭部の形状が似ていることから同総監督・監督ペアが手掛けた『巨神兵東京に現わる』の前日譚とする解釈もネットには溢れているが、私個人にいたっては、それには否定派の立場を取りたい。理由は単純で、それでは「がんばった日本」な彼らが、報われないから。あそこまで愚直に描いたテーマ性とのバランスが、盛大に崩壊してしまう解釈にしか思えないのだ。むしろ、馬鹿みたいに深読みするならば、こうして「それじゃ報われないだろ」という反論をさせることでよりテーマを強く感じてもらうための、笑顔の悪戯だったのかもしれない。

どちらにせよ、牧教授も、ラストの尾も、具体的に議論できるほどの情報は(少なくとも劇中では)出そろっていない。あえて、そういう塩梅にしているようにも思えるし、つまりは『インセプション』の最後の駒と同じで、「いくらでも解釈遊びが出来るようにしておきました」以上の意図は、もしかしたら無いのではないか …とも思えてくる。とはいえ、この解釈議論にこそ面白さを感じるのがオタクなので、ネットに浮上する数多の解釈を私個人としても楽しんでいきたい。






総じて、つまりは、『シン・ゴジラ』は“面白かった”。端的にはもう、これに尽きる。過去のゴジラと一種の決別を果たしながら、それでも溢れんばかりのリスペクトを込め、シリーズが復活する意義も、今の日本人だからこそ描けるテーマも、「無人在来線爆弾」という今世紀最上級の燃え笑いも、解釈遊びも映像の新鮮さも、その全てをちゃんと満たしてみせた。こんなにオタク臭いのに、こんなにも普遍的だ。色んな意味で、多くの人にこの2016年がアニバーサリーイヤーになることを心から願って、公開期間中にあと何度か劇場に足を運びたい。


「シン・ゴジラ」のサントラを聴きながら仕事の企画書を作ってるんだけど、妙に捗りすぎてやばい。気合が入りすぎる。この企画に失敗したら国が終わりそうな危機感があるし、フォントは明朝体以外に選べなくなる。

— YU@K (@slinky_dog_s11) 2016年7月31日

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『映画秘宝EX 最強ミステリ映画決定戦』に寄稿しました

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こんにちは、YU@K(@slinky_dog_s11)です。

先日の『別冊映画秘宝 特撮秘宝 vol.4』に続き、同じく洋泉社より8月3日発売の『映画秘宝EX 最強ミステリ映画決定戦』に参加させていただきました。本流である『映画秘宝』が毎年やっている年間ベストのミステリ映画版 …といったらご存知の方はイメージしやすいと思うのですが、総勢100人が各々の “オールタイム <ミステリ映画> ベスト” を寄せている一冊になります。僭越ながら、私もその1人として載っています。本当に、僭越ながら…。

「自分が好きなミステリ映画を10作挙げてランキングにする」というのは楽しい作業でしたが、おそらく「これはミステリ映画じゃないだろバッキャロー!」なご感想が沸きそうな選出もしてしまいまして。とはいえ、“選者がミステリ映画と思えばミステリ映画でOKです”というありがたいお言葉を頂戴したこともあり、素直に好きに選んでみました。手に取っていただけたら幸いです。




◆映画秘宝寄稿者を中心とした《映画ジャンキー100人》への大アンケートにより、オールタイム・ベスト・ミステリ映画が決定!傑作から怪作まで、見逃せない映画、全部教えます!

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・ベストテン総評&ミステリ映画大放言!
(柳下毅一郎×真魚八重子)
・回りくどい殺人と拍子抜けの結末 それが“ジャーロ映画”だ! 
(伊東美和×山崎圭司)
・横溝正史&松本清張! 邦画ミステリ大激論大会
(モルモット吉田×高鳥都)

〈もっと知りたい! テーマ別 ミステリ映画なんでもベスト〉
・PART 1 名探偵篇
シャーロック・ホームズ/金田一耕助/刑事コロンボ/名探偵コナン
・PART 2 ミステリ大国篇
韓国/アジア/フランス/北欧ドラマ
・PART 3 まだまだ深掘り篇
知られざる2時間ドラマ/よく考えたらこれもミステリ
バカミス映画/松本清張作品に出るイヤな感じの人

〈コラム〉
・大槻ケンヂが語る 江戸川乱歩 映像化作品の魅力
・時代とともに変わり続ける――ファム・ファタールの60年(澤井健)
・整理魔! デヴィッド・フィンチャーの世界(岡本敦史)
・クロード・シャブロルのミステリ演出(真魚八重子)
・熱狂! 深夜の海外ミステリ・ドラマ(青井邦夫)
・都筑道夫と映像作品(日下三蔵)

〈恐怖! ネタバレ天国〉
回答者がネタバレを気にせず好きな映画を推しまくる
……100人の記憶に刻まれた名場面はこれだ!

・PART 1 この死体がすごい!
・PART 2 この殺人シーンがすごい!

※洋泉社HP『映画秘宝EX 最強ミステリ映画決定戦』取り扱いページリンク



全くもって話は変わるのですが(ミステリついでに)、前々からぜひ映画で観たいなあ …と思っているミステリ小説があるんですよ。それは、星新一の『気まぐれ指数』という作品。“ショート・ショートの神様”で知られる氏が書いた長編小説で、奇妙な仏像窃盗事件で人物模様が交差する軽妙な読み口の作品。特に大きな大・大・大どんでん返しがある訳でもなく、割と淡々と物語が転がっていくのだけど、その絶妙なテンポ感と落とし所がさすがの“神様”だなあ、と。





ずっと前に一度ドラマ化はされたようだけど、今一度映画で、それこそ内田けんじ監督あたりでどうですか、なんて妄想したり。面白い作品なので、オススメです。

後半全く違う話をしましたが、ともかく、『映画秘宝EX 最強ミステリ映画決定戦』、よろしくお願いします。


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実写映画版『鋼の錬金術師』のストーリーを公開情報をフル動員して真剣予想する

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こんにちは、YU@K(@slinky_dog_s11)です。

「ハガレン」こと『鋼の錬金術師』といえば言わずと知れた大人気コミックであり、2度のアニメ&映画化に小説にゲームにその他諸々と、メディアミックスの話題には事欠かない巨大なムーブメントを起こした作品だ。ご多分に漏れず私も“ドはまり”した人間で、コミックスは読みすぎてボロボロだけど未だに出番が多く、Blu-ray Disc Boxも頻繁に棚から出動する。そんな愛すべき作品が2017年に実写映画化するとのことで、とっくに“終わった”作品でまた熱くなれることが楽しみでならないのだけど、ファンとして一度真剣に「ストーリー予想」をやってみようかな、と。

というのも、ご承知の通り近年漫画の実写映画化は非常に多い。一昔前は設定の大枠だけを借りて全くの別物にしてしまう例も少なくなかったが、近年では割と「基本はそのままに映画やドラマとしていかに取捨選択&再構築するか」がメインストリームになっている印象が強い。最近だと、映画『暗殺教室』は原作完コピをベースにエピソードのピックアップを行ったり、ドラマ『デスノート』は先の映画版がやらなかった魅力を原作要素に付加してみたり、『進撃の巨人』は原作そのままの物語を(原作連載中のため)途中で分岐させたりと、あくまで「原作はどうだったか」がまずスタートにあるように思えてならない。

という仮定の上で、『鋼の錬金術師』大好き人間が、現在公開されている情報から一介のファンなりにストーリーを予想してみたい。まず、監督を務める曽利文彦氏のインタビューを改めて読み返してみる。




曽利監督にとって、松本大洋の人気漫画を実写映画化した『ピンポン』(2002)以来、初めて自ら企画した作品だといい、「自分の内からやりたいという気持ちが湧き上がってきたもの」と証言。「この作品は実写でできると思っていたし、(それまで)待ってもいいと思っていた」と思い入れたっぷりに語る。

(中略)

「僕の悲願は、素晴らしい物語を素晴らしい映像で映画化すること。この原作には、子供向けだけではもったいない、上質なストーリーがある」とあくまで原作を支えるストーリーが重要であると強調。そのため、時には原作者である荒川弘の意見を聞きながら脚本を完成させた。

実写版「ハガレン」最高のストーリーを最高の映像で実写化!監督の意気込み




\曽利文彦監督インタビュー!/「シネマトゥデイ」さんにて掲載!曽利監督が『#鋼の錬金術師』実写映画化への意気込みを語ります。原作者・荒川弘先生のご意見を伺いながら脚本を完成させたエピソードなども披露!ぜひご覧ください。#ハガレン https://t.co/Bb8TPC787W

— 映画『鋼の錬金術師』公式 (@hagarenmovie) 2016年5月24日

監督が『鋼の錬金術師』という作品のストーリーを重要視していることが、このインタビュー記事からうかがえる。また、原作者・荒川弘氏のアドバイスも入っているというから興味深い。同インタビューで明言されている確定要素は「原作のエドは15歳だが、映画では20歳前後に」「文化的な背景は、原作通りヨーロッパがベース」の2点。年齢設定は主演の山田涼介の容姿を考えると納得の変更であり、後者については原作そのままなので特に言うことはない。


\🎬✨遂にクランクイン👊/撮影順調!『#鋼の錬金術師』スタッフ&キャストが、遂にイタリア🇮🇹入り!あの世界観をそのまま切り取ったようなロケ地で、いま一丸となって挑んでいます。📸こちらの写真は脚本の表紙。ご期待下さい!#ハガレン pic.twitter.com/gExHXHJLC3

— 映画『鋼の錬金術師』公式 (@hagarenmovie) 2016年6月8日

実際に使用されている台本のロゴも原作準拠のものなので、やはり先に仮定した「原作を根っこから覆す組み立て方ではない」だろう、という予測が強まる。別のインタビューでも、監督自らほぼ明言してしまっているほどだ。




「このストーリーを映画にするというのが自分の悲願。このために生きているといっても過言ではない」と言葉に力を込める。エドの年齢が20歳前後になるなど、変更点はあるが「なるべく原作に沿った形で表現していきたい」といい、「ルックや外側で固めることを売りにしたくない。いかに優れたストーリーが展開されるか、映画として成り立つかというのが自分の勝負」と、重厚な物語を描くことに注力すると明言した。

「鋼の錬金術師」実写映画化決定!「Hey! Say! JUMP」山田涼介×曽利文彦監督が世界に挑む



\曽利文彦監督インタビュー!/「映画.com」さんにて掲載!曽利監督が、10年以上前に『#鋼の錬金術師』実写映画化の構想を抱き、ご自身の悲願でもあったこの企画を、約3年前から始動させた事も披露!ぜひご覧ください。 #ハガレン https://t.co/MecfOJd69o

— 映画『鋼の錬金術師』公式 (@hagarenmovie) 2016年5月24日

他に、エキストラで募集されたのは20歳以上65歳以下の男性。最初は軍の人間かと思ったが、隊列で上官の指示を受ける面々に65歳がいては少々不自然なため、おそらく「賢者の石の材料にされる囚人やそれに類する存在」であると予想される。単なる一般市民なら性別を指定する必要性に欠けるし、水島アニメ版(第1期)第2クール終盤あたりの展開が最も近いのではないかな、と。


🎉『#ハガレン』エキストラ大募集! 2016年6月中旬~行われる撮影のエキストラを大募集‼️(※注:男性のみの募集となります。年齢は20歳以上65歳以下の方限定)詳しくはこちら⇒https://t.co/mEhedWKyXE pic.twitter.com/FGCOK6DodH

— 映画『鋼の錬金術師』公式 (@hagarenmovie) 2016年5月24日

つまり、予想のための材料として、まずは以下の点が挙げられる。

・監督がストーリーを重要視している
・エドワードの年齢は20歳
・舞台はヨーロッパ
・なるべく原作に沿った形で表現
・原作者のアドバイス込み
・いかに映画として成り立つか、という観点がある
・賢者の石の材料っぽいエキストラ募集


では、改めて『鋼の錬金術師』の物語とは、何なのか。人体欠損描写をモロに扱った本作は、主人公が最初から一種の罪人であること、そして、戦闘能力的にはほぼレベル100であることが特徴である。後者は言わずもがな、心理の扉の向こうの「あれ」をエドワードが物語開始時点で目撃しているため、錬成のための錬成陣は手パンにより肩から腕全体で“円”を構成し、必要な錬成情報は脳内に叩きこまれているため陣による表記は不要、という理屈である。だからこそ通常の少年漫画に見られる「努力」「特訓」等の要素はほぼ排除され、自らが犯した罪に向き合ってあがきながら敵組織の思惑と戦う、という方向で物語が進行する。

劇中のキーアイテムである「賢者の石」。これを手に入れれば失くした腕と脚と体が手に入るのだと、エルリック兄弟はその錬成方法を求めて旅を続ける。しかし、原作序盤で「賢者の石の材料は生きた人間」であることが発覚し、目的が大きく頓挫。「他者を犠牲にして自分たちが助かる訳にはいかない」と決めている彼らは、最終的には「兄弟の互いが互いを犠牲にする」という結論で、各々を救ってみせた。エドは錬金術を失い、アルは一時的に魂までも“持っていかれて”しまう。

そんなストーリーをなるべく原作に沿った形で表現、そして、「生きていくことの真実」(監督の表現)を突き詰める物語ということで、「エドとアルが人体錬成の末の咎人であること」「求めていた賢者の石は他者を犠牲にしてしまうもの」といった原作の持つダークな部分は、おそらくしっかりと盛り込まれていくのだろう。


【曽利文彦監督コメント①】『ピンポン』は企画段階から参加し、自らの想いが強く反映された作品ですが、本作はそれ以来となる、自らが立ち上げた作品であり、特別な思い入れがあります。(続く)#ハガレン #鋼の錬金術師

— 映画『鋼の錬金術師』公式 (@hagarenmovie) 2016年5月24日

【曽利文彦監督コメント②】(続き)『#鋼の錬金術師』の世界観やテーマ性、そして“生きていくことの真実”を描いた、この素晴らしいストーリーを、幅広い世代にご覧いただけるよう、チーム一丸となって全力で取り組んでいきたいです。#ハガレン

— 映画『鋼の錬金術師』公式 (@hagarenmovie) 2016年5月24日


加えて、今度は2016年8月22日現時点で発表されているキャストとその役柄に注目していきたい。




本田翼がエドワードたちの幼馴染で機械鎧(オートメイル)技師のウィンリィ・ロックベル役、ディーン・フジオカが兄弟の良き理解者で、若き士官“焔の錬金術師”の名を持つロイ・マスタング役、松雪泰子がふたりの前に立ちはだかるホムンクルス(人造人間)で謀略に長けた“色欲”のラスト役を演じる。

そのほか、佐藤隆太(マスタング大佐の親友ヒューズ中佐役)、蓮佛美沙子(マスタングの側近ホークアイ中尉役)、夏菜(ロス少尉役)、大泉洋(本作で重要な役割を担う国家錬金術師のタッカー役)、國村隼(ドクター・マルコー役)、小日向文世(ハクロ将軍役)、本郷奏多(“嫉妬”のエンヴィー役)、内山信二(“暴食”のグラトニー役)、石丸謙二郎(ホムンクルスと共謀するコーネロ教主役)が出演する。

『鋼の錬金術師』山田涼介で実写映画化!豪華キャスト13人の役どころが発表




『鋼の錬金術師』山田涼介で実写映画化!豪華キャスト13人の役どころが発表 | ぴあ映画生活 https://t.co/IqjxNr0HaG #映画 #eiga pic.twitter.com/O9V3DDetfg

— ぴあ映画生活 (@eiga_pia) 2016年5月24日

主に原作序盤のオールスターメンバーだが、実は重要なポイントがある。もちろん、後で追加のキャスト発表がある可能性も捨て切れないが、「スカー(傷の男)が不在」なのだ。これは、重要なヒントのような気がしてならない。というのも、彼はエドに対する中ボスのような存在でありながら、その出自と経歴が敵の画策する「国土錬成陣」の布石になっている。彼の故郷で起きた戦乱と、アメストリスの建国以来の動きが、符合していくのである。

原作は大きく分けると「賢者の石を求める旅」「国土錬成陣の阻止」の2つのラインがあり、映画を前後編ではない一作でまとめるとするならば、必然的に削られるのは「国土錬成陣の阻止」の方である。とするならば、スカーを出さずにその分の敵対&バトル要素をホムンクルス組に割り当てた方が、どう考えてもスムーズだ。

加えて、マルコー(賢者の石の錬成に携わっていた元国家錬金術師)、ヒューズ(出てくるからには死ぬことに意義のあるキャラクター)、ロス少尉(エドの護衛役)、ハクロ将軍(エドに救出されたり裏で浅く暗躍したりする子悪党ポジション)、タッカー(娘を己の研究に利用するガチクズ国家錬金術師でありながらなんと大泉洋が演じる)らの登場が決まっているので、そうなると、消去法も含め、自ずとストーリーが予想できていく。




1)エドとアルは旅をしている
2)登場がてらバトル&機械鎧&空の鎧を披露(その騒動の裏で暗躍するホムンクルスが顔見せ。ハクロ将軍を救出される役どころで消化か?)
3)賢者の石を探す旅の中で、マスタング大佐登場。軽く焔を披露
4)生体研究の第一人者であるタッカー家で研究するも、原作通り彼が娘と犬を使って錬成する(兄弟の護衛についたロス少尉がタッカーの研究に利用されてしまう展開も可)
5)ラストやエンヴィーあたりがタッカーを始末(彼の研究は賢者の石の必要性を低めてしまう危険性があるから、とか何とか理由はいくらでも)
6)タッカー殺人容疑のホムンクルスとマスタングやヒューズやホークアイあたりが戦闘
7)落ち込む兄弟はウィンリィやロス少尉(生きていれば)に励まされながら賢者の石を追い続けることに
8)ヒューズ、敵の動きを悟ってしまいラストに殺される(原作では国土錬成陣に気付いていたが、賢者の石が目的であることを悟ってしまう、程度でも可か?)
9)兄弟がドクターマルコーの居場所を突き詰めるも、彼の元にはホムンクルスの魔の手が
10)親友の死やハクロ将軍のちょっかい等々を乗り越え、マスタングも兄弟に合流
11)マルコーはホムンクルス組に脅迫され、囚人等を使って今にも賢者の石を作ろうとしていた
12)エド、タッカー事件の教訓を経て、マルコーを熱く説得
13)全面対決、アクションの見せ場
14)必要に演じてエンヴィーやグラトニーが巨大化し、映像的見せ場へ(ラストは大佐がヒューズの仇も込めて撃破)
15)原作終盤通り、超ピンチに兄弟が互いを犠牲にしてホムンクルスを撃破(アルが魂を等価交換するまではいかなくとも、何らかの形で自己犠牲して兄弟の愛と信念を描写)
16)“帰ってこられる場所”としてのウィンリィアピールタイム
17)「俺たちはこれからも誰も犠牲にしない方法で旅を続ける。等価交換は絶対かもしれないが、俺たちはそれに屈してばかりではいけない」
18)エンドロール後、大総統っぽい人の口元がほほ笑む



原作序盤を軸に、発表されている登場人物で物語を取捨選択し、2時間前後(であろう)尺に割り当てると、自ずと遠からずこんな感じではないかな、と思われる。ポイントとしては、タッカー殺害をホムンクルスに割り当てることで「兄弟&軍vsホムンクルス」の構図をシンプルに組み上げること(つまり、軍の暗部云々をバッサリと切り捨ててしまう)。また、ヒューズ殺害の下手人を原作のエンヴィーではなくラストに変更することで、原作通りの「マスタングvsラスト」に復讐劇の要素を付加できること。まあ、軍の暗部要素は残しても良いが、その担い手が現状だとハクロ将軍しか見当たらないので、少々役不足(誤用)と思われる。

ホムンクルス組の目的は原作では国土錬成陣の完成にあるが、主人公であるエルリック兄弟と同じ「賢者の石の錬成」を目的としてしまい、「他者を平然と犠牲にできる敵」と「それを許さない主人公たち」の構図にしてしまった方が、よりシンプルに深くテーマを追求することが出来るかもしれない。とはいえ、そうするとホムンクルスの出生設定がややこしくなるが、水島アニメ版の神業である「ホムンクルスは人体錬成の失敗作」設定を持ち込めば、実は簡単にクリア出来そうな気もするのだ。

ということで、公開はまだ一年以上先だが、ネタバレもへったくれもない完全なる一個人の「予想」として、上記の一連の流れをこのブログに書き残しておきたい。方々のインタビューを読むと監督は主に「映像に力を入れたい&原作は尊重したい」を掲げているようなので、ストーリーそのものはそこまでいじってこないのではないかな、と。近い未来の答え合わせは、一体どうなるか。兎にも角にも、公開が待ち遠しい限りである。


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『流星キック NEO』(東北芸術工科大学 特撮サークル広報誌)に「大学生への推薦特撮」を寄稿しました

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こんにちは、YU@K(@slinky_dog_s11)です。

この度依頼を頂戴しまして、東北芸術工科大学の特撮サークル「特撮研究室Q」が同大学の学祭で販売する『流星キック NEO』に、「大学生への推薦特撮」という寄稿文で参加させていただきました。前々からこのサークルの活動は個人的に応援していて、以前も『「流星キック」(東北芸術工科大学 特撮サークル広報誌)に感じた「特撮」の根元的な魅力』という記事で紹介したことがありましたが、まさか自分がこのような形で参加させてもらえるとは…。「造る楽しさ」に一枚噛ませてもらえたことが、何より嬉しい限りです。


芸工祭2016(9月17・18日)に当サークルは「流星キック NEO」を販売致します。
一部500円です。普段の「流星キック」よりも進化した特別版を、是非この機会にゲットしてください! pic.twitter.com/Bu3Uw9kvpl

— 特撮研究室Q▲通販中 (@tuad10932) 2016年8月27日

「流星キックNEO」目次公開します。
今紹介したものの他にも、レビューなど面白い企画が盛り沢山! pic.twitter.com/cuLbE6r5cy

— 特撮研究室Q▲通販中 (@tuad10932) 2016年8月27日

内容としましては、「大学生への推薦特撮」。編集担当の方と打ち合わせしていく中で、「大学生の感性だからこそ響くかもしれない&その世代にこそ観て欲しい作品」というワードをやり取りしまして、三十路手前のオッサン視点で“それら”を選んでみました。

「この作品のこのセリフを(僭越ながら)社会人視点で解説したい」「大人がかっこよく仕事をしている様が観られる作品をオススメしたい」等々、計3作品を4,000字ほど書いています。何を選んだかはもちろん読んでいただいてのお楽しみですが、誰でも観られるように割と近年の作品を中心に組んでいますので、『流星キック』片手にレンタル屋に行っていただけたら書き手冥利に尽きるなあ、と…。

兎にも角にも、私自身もこの『流星キックNEO』が楽しみなんですよね。今回は印刷所に委託してしっかり製本されるとのことで、表紙も初のカラーでボリュームもすごい!過去の1号と2号も部屋のマガジンラックに置いてありますが、「大学生だからこそ」に溢れた面白さ(ある種、プロの特撮誌では書けない部分)が魅力的で、読んでいて面白いんですよね。一介のファンとして、今号の「学祭特別号」が楽しみです。


流星キックNEOは一部500円、当日は特撮研究室Qのブースと「サクシードカレッジ」さんのブースでも委託販売します。
学祭後はダウンロード販売と、在庫が余れば通販を致しますが、今回は在庫に限りが御座いますので、この機会にぜひ芸工大へ!https://t.co/Rhfxw2Yppv

— 特撮研究室Q▲通販中 (@tuad10932) 2016年8月28日

学祭特別号とのことで基本は東北芸術工科大学内での販売になるのですが(一部500円)、後のDL販売や通販も計画されているとのことで、ぜひ購入をご検討いただけたら幸いです。


今回は巻頭4ページフルカラーにて、オリジナルヒーロー「カモシカイザー」の紹介をしています。このページデザイン、ピンとくる方も多いのではないでしょうか。 pic.twitter.com/iCxxV7uqJs

— 特撮研究室Q▲通販中 (@tuad10932) 2016年8月27日
▲すでにオリジナルヒーローを児童誌パロで紹介していてめっちゃ笑ってしまいました。


(関連サイト)
流星通信(東北芸術工科大学 特撮サークル「特撮研究室Q」ブログ)


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『特命戦隊ゴーバスターズ』Mission15「金の戦士と銀のバディ」における挿入歌使用の素晴らしさについて

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こんにちは、YU@K(@slinky_dog_s11)です。

先日、加入しているAmazonプライムビデオにて『特命戦隊ゴーバスターズ』の配信が開始された。スーパー戦隊シリーズ第36作目にあたる本作では、前作『ゴーカイジャー』がアニバーサリー戦隊としてド派手に暴れたのとは対照的に、過酷な運命を背負わされながらもストイックにミッションに挑む若者たちの日々が描かれた。私も、ついついプライムビデオで何時間も観てしまうくらいに大好きな作品で(ここ数日ゴーバスばかり…)、とにかく「新しいことをやろう」という気概とチャレンジに満ちているが故に、「面白い」のだ。





本作の「面白い」ポイントは挙げればきりが無いのだけど、自然光を浴びまくるオープンセットでの巨大戦や、レザー仕様の隊員服とギラギラ光るサングラスを装着したスーツデザイン、無駄のない動きと佇まいが魅せるアクションに、巨大戦と等身大戦を同時並行するシナリオの凝り方や、対照的にベタなまでのバディロイドとの“キズナ”的作劇など、いくらでも語ることが出来る。そのひとつとして挙げられるのが、第15話から本格登場する陣マサトというキャラクターだ。

ヒロムたちゴーバスターズの目的のひとつである「亜空間にて行方不明になった親族の救出」に大きく関わってくる彼は、謎をまといながら圧倒的なキャラクター性で物語を牽引していく。「謎と目的の本質である亜空間からやってきた」という背景に留まらず、「司令官の同期」「エースパイロットであるヒロムより戦闘能力が高い」「本人もアバターであり自分が実社会に帰還することを目的としている」「年長者であったリュウジの先輩」、そして「最終的にヒロムたちのために自己犠牲で散る」といった顛末まで、非常に“濃い”キャラクターである。そんな“陣さん”が本格的に登場する回(Mission15「金の戦士と銀のバディ」)は金田治監督が担当しているが、彼とその相棒であるJがビートバスター&スタッグバスターに変身してからの一連の流れが、もう息を飲むほどに素晴らしいのだ。何が良いかって、挿入歌とカット割りによる演出である。

シーンをひとつずつ解説していくと、まず「メガゾードの方いけよ」と陣さんとJが颯爽と登場し、「被るなよ」の鉄板やり取りを終えた後、ふたりそろっての変身を披露する。Jのアーマーが陣さんにくっついていく流れも映像的に面白いが、見所(聴き所?)は変身完了直後に鳴り出す挿入歌「Boost Up! ビートバスター」だ。







作詞:藤林聖子&作曲・歌:高取ヒデアキという超絶お馴染みかつ鉄板な布陣によって披露されるこの挿入歌は、オ・レ!から始まる軽快なラテン調の楽曲で、思わず体でリズムを取ってしまうくらいにリズミカルである。挿入歌が鳴りながら、ニックの「脱げるの?脱げるの?」のギャグシーンが消化され(ヒロムの冷静なツッコミが面白い)、お次はJの良い意味でのポンコツ具合を陣が面白がるシーンが挿入される。

彼がJを指して語る「ダメなところが面白い」という台詞に、リュウジが間違いなく自身が憧れた“天才なのに完璧を求めないエンジニア”陣マサト本人であることを確信するのだ。そのリュウジの回想シーンで、在りし日の陣さんが「完璧じゃつまらないだろ」と語るそのタイミング“ぴったり”に、挿入歌2番Aメロの「人もロボットも完璧じゃつまらない」という歌詞が流れるのだ。もう、びっくりするくらいに、ドンピシャである。







変身シーンで鳴り始めた楽曲の歌詞とシーンがシンクロするこのカットが意図されたものか偶然かは分からないが、私は何度観てもこのシーンで鳥肌が立ってしまう。挿入歌は進行し、ビートバスターとスタッグバスターが戦闘を繰り広げながら、ヒロムたち3人は彼らにここを任せてメガゾードの対応に回る判断を下す。

続けて、2番サビに入るそのピッタリのタイミングでビート&スタッグバスターの戦闘に切り替わり、そして、黒木司令官の「バスターマシン、全機発進っ!」の号令と共にバスターマシンに乗り込むゴーバスターズのカットに続いていく。またもやここ“ドンピシャ”で挿入歌は間奏に突入し、更には転調からのギターソロ、そしておそらく挿入歌のボリュームそのものまでアップしている。ギターソロが鳴り響き曲が更に盛り上がる高揚感が、バスターマシンが次々と発進していく高揚感と見事に符合するのだ。





そして、ラストのサビの“盛り上がり前振り”として伴奏が少し薄くなるタイミングでビートバスターたちの戦闘にシーンに戻り、わらわらと出現するバグラー軍団をドライブレードでバッサバッサとなぎ倒していく(この時のビートバスターの低滑空移動がかっこいい)。締めにブレードをバグラーに突き立て、そこでスパッと曲も終了。一転、今度はバスターマシンの戦闘にシーンが移行していく。









上では「意図されたものか偶然かは分からない」と書いたものの、これを書きながら改めて繰り返し鑑賞していると、やはりかなり計算された上での意図的なものにしか思えなくなってきた…。随所で細かくボリュームの調整が行われており、戦闘シーンでは大きく、会話シーンに被る箇所では小さく、そしてボリュームを切り替えるタイミングに合わせてシーンも転換させている。原曲を不自然な感じではいじっていないので、おそらくこの挿入歌から逆算して組み立てたシーンなのだろう。

しかもこのMission15、なんと金田治監督の“初戦隊監督回”だから面白い。東映公式ページでもその舞台裏に言及がなされているが、東映特撮ファンとしては中々に興味深い逸話である。

特撮ヒーローものにおける挿入歌は非常に大きな役割を持っており、それひとつで如何ようにも盛り上がるし、逆に「ただ流すだけなんて勿体なさすぎだろ…」「え、そこで切っちゃうのかよ…」と感じてしまう時もある。その点、私が何年にも渡って“お熱”なこのMission15は、その「特撮ヒーロー番組における挿入歌使用」について、ひとつの決定版であり黄金パターンであると感じている。曲調と歌詞をシナリオにリンクさせ、その上で曲の展開に沿ってシーンを切り替え、組み上げる。観れば観るほど(聴けば聴くほど)そのロジックを味わえる極上の演出。ぜひとも、一見&再見いただきたい。


特命戦隊ゴーバスターズ Amazonビデオ ~ 鈴木勝大 https://t.co/X92SUfTzZt @AmazonJPさんから

— YU@K (@slinky_dog_s11) 2016年9月21日

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【レビュー】「Fitbit Alta」防水&時計機能付きスマートリストバンドを10日間使ってみた雑感

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こんにちは、YU@K(@slinky_dog_s11)です。

Twitterの方ではぼちぼち呟いていましたが、先日、スマートリストバンド「Fitbit Alta」を購入しました。“スマートウォッチ”に対する“スマートリストバンド”というと無駄に聞こえがかっこいいですが、要は「活動量計」というやつですね。歩数や運動、睡眠等の記録を絶え間なく収集し続けてくれるリストバンドです。なぜ購入したかというと、端的に、「体がなまってきたから」。三十路が近くなり、体力における若さ補正が効かなくなってきたここ数年、じわじわと危機感を覚えていたので…。この活動量計と一緒に運動をしてみよう、という短絡的な動機。

といっても家で映画や特撮を観て漫画を読むのが好きな自分にとって「運動」は決してハードルが低くないので、まずはウォーキングから開始。「Fitbit Alta」と共に、朝夕それぞれ30分のウォーキングを(雨天時を除き)現在10日間継続中。元が極端になまっていたからか、これだけで1.5キロ体重が落ちたのだけど、減量云々よりもまずは体を動かす習慣をつけたいなあ、と。


届いたぞ。 pic.twitter.com/L0QZUbvRFb

— YU@K (@slinky_dog_s11) 2016年9月18日

そんなこんなで本題ですが、「Fitbit Alta」、結論からいうと非常にオススメのガジェットです。本体そのものは幅4センチ以下の神社で引くおみくじに厚みがある程度のものですが、これが中々のスグレモノ。時計機能があるので、時刻・日付・曜日がすぐに確認できて時計代わりになりますし、何より軽いのでずっと付けていられる。防水機能が備わっているので、付けたまま手を洗ったりウォーキング中に雨がパラつく程度は問題なし(ただしシャワーのレベルになるとNGだとか)。また、対応アプリの出来が結構良くて、楽しく運動が出来るようサポートしてくれる。

…と、ダラダラ書いても仕方ないので、【できること】【できないこと】を箇条書きで列挙。



【できること】
・運動、歩数、歩行距離、消費カロリー、睡眠時間(寝返り回数)を自動記録
・防水仕様
・軽い
・時計機能(時刻・日付・曜日)
・時計は、腕を持ち上げる動作でディスプレイ自動起動
・充電残量も本体で確認可能(フル充電で約5日間)
・バンドを超お手軽に付け替えられるので、シーンによって使い分けが可能
・対応アプリが良く出来ており、運動を楽しめる要素アリ(後述)
・着信、メッセージ、カレンダーイベントの通知
・サイレントアラーム機能
・バンドのサイズはラージとスモールの2パターンあり
・充電は付属の機器をはめるだけの簡単設計(USB経由)

【できないこと】
・シャワーを浴びても大丈夫なレベルでの防水機能
・心拍計(心拍数は計れない)
・本体ディスプレイ表示は白の単色のみ
・付属バンドが慣れるまで少し付け辛い
・タップによる画面切り替えが慣れるまで少し時間がかかる



といったところで、「スマートウォッチはまだちょっと高いけどそれっぽいのが欲しい」「電話の通知やサイレントアラームが欲しい」「運動を自動記録してくれる活動量計が欲しい」「さりげなく付けられるアクセサリー感覚のガジェットが欲しい」という人には、素直にオススメの一品です。使い方もちょっと触ればすぐ理解できますし。


pic.twitter.com/ZDmTSZ9we9

— YU@K (@slinky_dog_s11) 2016年9月18日

Fitbit、ここまで記録されるのか。怖ぇくらいだ。寝返りが多すぎて実質睡眠時間が5時間切ってるとはな。 pic.twitter.com/KaHlh6zVb7

— YU@K (@slinky_dog_s11) 2016年9月18日

対応アプリは、毎日の歩数や消費カロリーを記録。睡眠状態も詳細に自動記録。本体とスマホはBluetooth接続なので、そうバッテリーを食う心配も無し。また、運動を楽しむ機能として「チャレンジ」モードがあり、「アドベンチャー」では遠い異国の風景を仮想歩行できる。辿り着いた情景はSNSにシームレスに投稿できる上に、クリアしたらバッジもゲット。まあ、それが何になる訳でもないのだけど、ただ黙々と運動するよりはやりがいがあるのかな、と。


バーナル滝コースを 5,900 歩進み、シルバーエプロンに到着 #FitbitAdventure @Fitbit pic.twitter.com/XswxAy1879

— YU@K (@slinky_dog_s11) 2016年9月19日

Fitbit アドベンチャーでバーナル滝トレイルをハイキングしました pic.twitter.com/nPRU6En44j

— YU@K (@slinky_dog_s11) 2016年9月20日

今朝のウォーキングからまたFitbitさんとの新たな旅が始まった。 pic.twitter.com/zQxLJB4ndB

— YU@K (@slinky_dog_s11) 2016年9月20日

15,000歩数でアーバンブーツバッジを獲得!#Fitbit pic.twitter.com/1JAnguWGYO

— YU@K (@slinky_dog_s11) 2016年9月23日

たまの日に別途購入した革のベルトに付け替えたりして、毎日愛用。付け替えは接続金具部分を軽く押し込んでズラすだけなので、非常に簡単。慣れれば両端の付け替えは5秒で終わります。オフィシャル交換用のステンレスバンドも売ってたりしますが、まあまあの価格なので手が出せず…。





初期設定完了。なるほど大体分かった。今後よろしくな、Fitbit先生。 pic.twitter.com/ofJbLVccrZ

— YU@K (@slinky_dog_s11) 2016年9月18日

そんなこんなで、お気に入りの「Fitbit Alta」。ウォーキングの効果はぶっちゃけさほど期待していませんが、とにかく毎日体を動かす習慣だけは身に着けておかねば!…という感じです。「失われゆく若さ補正vsスマートリストバンド」の図式は、今後もTwitterにてちょくちょく呟いていくかと思いますが、取りあえずまずは1ヶ月継続を目途に、頑張ります。


Fitbit Alta はバンドを付け替えられるのが楽しくて気に入ってるんだけど、近日詳細公開予定のこのデザイナーズバンドがめちゃくちゃ気になってる。その腕時計スタイルに!横!横とか!!ズルい!!! pic.twitter.com/UvEoizWKdr

— YU@K (@slinky_dog_s11) 2016年9月22日


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『特命戦隊ゴーバスターズ』Mission15「金の戦士と銀のバディ」における挿入歌使用の素晴らしさについて
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実写映画版『鋼の錬金術師』のストーリーを公開情報をフル動員して真剣予想する
『映画秘宝EX 最強ミステリ映画決定戦』に寄稿しました

茶化された復讐劇の先に『ファイアパンチ』。映画監督トガタは何を目的としたキャラクターだったのか

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こんにちは、YU@K(@slinky_dog_s11)です。

何かと忙しくて久々のブログ更新となってしまいましたが…。第1話公開時点でネットを中心に大反響を呼び、話題性のあるイロモノ漫画として連載継続中の『ファイアパンチ』。主人公は「再生能力の祝福」を持ち(この作品における“能力者”を指す)、斬っても生えてくる腕を飢えに苦しむ村の食料として提供していた …というハードな導入から始まるこの作品は、妹との近親相姦を仄めかしつつもその兄妹は「炎の祝福者」によって村ごと焼かれてしまい、焼死目前と再生を繰り返しながらその身に炎をまとった主人公が、「炎の祝福者」に強い復讐心を抱く、というあらすじである。

連載開始時に「なんかジャンプにしてはネット公開とはいえ攻めてきたな…」と思いつつグイグイ惹きこまれ、単行本も買いながら毎週月曜の更新を楽しみにしているのだけど(現時点で単行本2巻、連載は25話まで公開中)、非常に面白い構成の作品だと感じていて、ついついこうやって感想を書きたくなってしまったという…。





本作は、まず主人公・アグニが人肉と血と性欲が躍る混沌とした世界でひたすらに復讐に突き進むのが単行本1巻の内容だが、その後の2巻でトガタという女性のキャラクターが登場する。彼女は非常に我が強く変わった人間で、主人公と同じ「再生の祝福者」でありながらすでに300年を生きており、そして映画が大好きなために見惚れたアグニを“主人公”に「ファイアマン」という映画を撮ろうとする。そのため、アグニを誘導し、衣装を着させ、戦い方を教え、演技をさせ、果てには復讐相手である敵にまで“自身の監督作を盛り上げるため”に塩を送る。非常にトリッキーなキャラクターである。

よくネットでは、このトガタが出てきてから「ジャンルが変わった」「復讐劇の成分が弱まった」「失速した」という声が上がっていたが、確かにそう思うところはありつつも(先に下記のインタビューを読んでいたこともあり)絶対にこれは“前振り”だと確信しながら連載を追っていて、そして遂に、ここ数週の展開がまさに映画のごとく帰結しつつあるのが爽快でたまらないのだ。それは、作者のこの言葉にある。




僕は物語が展開される中で、ジャンルが変わるというか、読者が事前に予想していた展開からまったく別の方向へ進んでいくマンガを作りたいと思っているんです。映画なら「ゴーン・ガール」、アニメでいうと「魔法少女まどか☆マギカ」「がっこうぐらし!」「ハイスクール・フリート」なんかがそうですかね。それが成功しているのかはわからないですけど、どれも話題になっているじゃないですか。話題を作るうえで、そういう試みは必要だなと思って。「ファイアパンチ」は今後3回か4回、ジャンルが変わります。

「ファイアパンチ」藤本タツキインタビュー - コミックナタリー Power Push



だから、トガタが出てきて物語の核心だったアグニの復讐劇が彼女の娯楽のために利用されたとしても、それはそれで「作者の思うツボ」なのだろうから、であるならば、それを“受け止める”展開として一体どういう受け皿が用意されるのだろう、というのが私の中で牽引力になっていた。もちろん、トガタのキャラクターは同じ映画好きとして好きにならざるを得ないくらいに面白く、「つまんないけど先の展開があるから堪えよう」ではなく、「ちょっと雰囲気変わってきたけどこれ絶対“前振り”だよヤベーヨ」という感じであった。





余談だが、作者・藤本タツキ氏は本当に映画が好きなのだろうな、と感じる。トガタ自身は別に妙にマニアックな映画を語るタイプではなく、むしろビッグバジェット系の作品が好きなのだろうと思わせる言動が多いが、この作品のコマ割りや演出が所々やけに映画チックというか、その手の演出を意図したものに思えて仕方がないのだ。2巻中盤の訓練のくだりでの「真面目に訓練するシーン」と「ギャグシーン」の軽快なカットバックや(最近でいうと『X-MEN ファースト・ジェネレーション』や『アントマン』の訓練シーンを思わせる)、廊下を右から左に移動するシーンで“カメラ”は横移動のまま主人公が立ち止まって右に流れていく演出など、映像的な動き・演出を思わせる部分が多く、そこがまた読んでいて非常に楽しいのだ。


※このあと、単行本3巻以降収録部分のネタバレがあります。


ということで話を本題に戻すと、「ちょっと雰囲気変わってきたけどこれ絶対“前振り”だよヤベーヨ」がついに“結実”する展開が、現在連載中の19話以降で展開されている。自称映画監督・トガタの策略によって、それぞれパワーアップしたファイアマン(アグニ)とベヘムドルグ軍&収容祝福者の全面対決が開始。映画「ファイアマン」はその壮絶な復讐劇にふさわしい大乱戦が行われる …はずだったが、その寸前、アグニは牢に囚われた人間たちを救い出してしまう。トガタのシナリオに無い動きをさせたのは、在りし日の炎をまとう前の自分の幻影を見たから。彼は、そもそも自分がこの世界に対して“なに”を抱いていたのか、思い出そうとしていた。





トガタはトガタなりに真剣であるとはいえ、彼女がアグニにした所業は、要は「茶化し」である。妹を塵にされ、自身に消えることのない痛みを植え付けた宿敵・ドマに対する復讐心。そのアグニの強大でドス黒い復讐心を、トガタは自身の映画のために“フィクション”として利用する。アグニにとっては、自分の復讐は誰のための物語でも、ましてや他人の創作意欲を刺激するためのものではないのだが、トガタはそんなことはおかまいなしに、ましてや敵対するベヘムドルグ側にさえ協力してみせる。

「他人の、人生をめちゃくちゃに破壊されたことによる復讐心」を「自身の、映画作成のため」に利用してしまう。傍観者としてドキュメンタリーとして撮るならまだしも(?)、完全に自分がその舞台を操作している。そうやって「茶化された」アグニの復讐心には、それが遂に叶う目前になって、あろうことか自分自身により「?」が突き付けられてしまうのである。そうして薪として四肢を燃やされていた囚人を助け、敵と戦いボロボロになりながら、痛みを覚えつつ、アグニは自身の復讐心のその更に深層にあった“感情”に気付くことになる。




(なんで俺は生きているんだ…?)
(生きていても痛いだけだ)
(死んだらドマへの憎しみだって炎の痛みだって消える…)
(死んだら…ルナと会えるのに)
(なんで俺は死なないんだ…?)

(あれ…何かを忘れている気がする…)
(大事な何かを…)
(今…)
(俺は……なんで今生きているんだ…?)

「あいつらは…悪気もなく…」
「人を物みたいに扱う…」
「俺達が生きている事を忘れて…薪のように燃やす…」
「それがまるで当たり前みたいに…!」
「全部氷の魔女のせいにして…!」
「俺達を薪と呼ぶ世界を作った…!」

「負けてたまるか…!」
「ただで死んでやるか…!」
「そうだ…俺は嫌いだったんだ…!」
「雪も」
「飢餓も」
「狂気も」

「ずっと!」
「許せなかったんだ!!」

・本編「24話」より



アグニが、妹を殺し自身をも苦しめたドマに抱いていた復讐心の“正体”は、実は「この世界そのものに抱いていた憎悪」だった。それが、ひとつの契機を受けて復讐という形でドマに向いていた“だけ”だったのだ。そうして、アグニがそれに気付いたその直後、彼はトガタが撮影のために用意した「音声認証によるパワードアームの炎上(=必殺技)」を放つ。その認識用音声こそが、「ファイアパンチ」なのだ。





ここでタイトルそのものに帰結するからして、トガタの存在が昇華されたのだと感じる。彼女はつまり、物語を牽引しながらも、幸か不幸か「アグニが自身の復讐劇を“客観視”するきっかけ」を彼自身に与えてしまった。アグニはトガタに言われるがままに演技をし、「復讐を願う自分が復讐を願う自分を演じる」という体験を経ていくなかで、そこに疑問を抱き、やがてトガタの敷いたレールを根元的憎悪を指針に外れていく。トガタによる「茶化し」がアグニの真の感情を露わにし、それが彼女のシナリオを壊すというのだから、トガタにとってはこの上なく皮肉の効いた展開であるし、彼女自身が皮肉屋であったのもこの展開のための“前振り”だったのではと深読みしたくなる。

更には、アグニはトガタが用意した必殺技を彼女のシナリオとは違う意図(タイミング)で発動するが、それがまたこの上なく「ビッグバジェット系アクション映画のクライマックスでやりそうなド派手でケレン味たっぷりの必殺技」なのだ。アグニは、“演出的に”監督であるトガタをねじ伏せ、そうして、助けた囚人たちから「神」と崇められる。もうまさに、ここで映画が一本終わりそうな三幕構成としてドンピシャなのだ。「妹を殺された男の走る復讐心が」「それを第三者によって茶化され利用され」「しかしそれによって彼は抱いていた本当の思いに気付き、クライマックスで必殺技を放つ」。<一作目、完>。「世界そのものを憎み戦う男の“オリジン”はこれにて完成したのである…」。うーん、素晴らしい。





トガタのシナリオを、作者のシナリオが上回る。彼女も作者が生んだキャラクターなので当たり前の話ではあるが、つまりは彼女はアグニのオリジン完成のための当て馬だったのではないだろうか。あれだけアクの強かったトガタを、しっかり主人公が食い返したのだ。そして、ああも暴走して見えた彼女の言動も、しっかりと作者の掌の上だったというのだから。




──キャラクターにご自身を投影することはあるんですか?

ないですね。計算して描いているので、キャラが勝手に動いちゃうのが怖くて。今のところは僕が考えたとおり、それぞれのキャラが動いてくれています。

「ファイアパンチ」藤本タツキインタビュー - コミックナタリー Power Push



「<1>救いのない異国ファンタジーでの血肉飛び散る復讐劇」が「<2>異常映画愛好家によるフィクション物語」に変化し「<3>主人公の成長と必殺技が飛び出る正統派燃え展開」に繋がっていく。現状2回変化したこの『ファイアパンチ』が、本当にあと数回もジャンルが変わっていくとしたら…。そして、実はまだこの変化は「1回」ですらなかったのだとしたら…。それでも、見た目は変わりつつも根っこは脈々と引き継がれ続いていく、そういう構成なのではないかと、期待してしまうのだ。作者・藤本タツキ氏の巧妙なストーリーテリングに、今後もまんまと踊らされていきたい。


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『別冊映画秘宝 特撮秘宝 vol.5』に「田口清隆監督&『ウルトラマンオーブ』紹介コラム」を寄稿しました

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こんにちは、YU@K(@slinky_dog_s11)です。

今年初めに『vol.3』、シンゴジ公開時期に『vol.4』で作品紹介等を書かせていただきましたが、続く『別冊映画秘宝 特撮秘宝 vol.5』(洋泉社より2016年12月5日発売)にも参加させていただきました。

今回は、TV本編シリーズが佳境を迎える『ウルトラマンオーブ』を中心に、同作のメイン監督を務められている田口清隆監督の紹介コラムとなっております。私なぞがあの田口監督の紹介をさせていただくという 非っ常~~に 大それた内容ですが、『ギンガS』『エックス』における同監督の担当回を振り返る内容にもなっておりますので、ぜひお手に取っていただければ幸いです。「『オーブ』ついに完結!『ギンガS』から繋がる田口清隆のウルトラ世界」というタイトルで、見開きの2頁です。


※洋泉社HP『別冊映画秘宝 特撮秘宝vol.5』取り扱いページリンク


あと、Twitterの方では反映済みですが、今回から名義を変更しています。ぶっちゃけ「YU@K(ユーケー)」は読み辛いので(今更ですが)、「結騎 了(ゆうき・りょう)」という名前にしています。ブログの方はブログタイトルからして変わってしまうので「どうしようかな」と悩みつつ…。もしかしたら近々変更するかもしれません。

続けてこれまた近況報告になってしまうのですが、実は今冬、子供が産まれる予定です。ブログの更新頻度がここ半年ガクっと落ちたのは、出産を控える嫁さんとの家事分担等を変えたからでして、読んでいただいている皆様には申し訳ないと思いつつ、時間を作ってはパパママ教室に通ったりしていました。兎にも角にも、健康に産まれて欲しいと願うばかりです。

記事タイトルからどんどん脱線してしまいましたが、要は「更新頻度は落ちたけど今後も自分のペースで色々と書いていきますので、引き続きよろしくお願いします!」ということです。今月は12月なので、毎年恒例の年間映画鑑賞作品振り返りもやります!重ね重ねですが、今後とも「YU@K」ならびに「結騎 了」ならびに「YU@Kの不定期村」をよろしくお願いします。


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【総括】閉眼!『仮面ライダーゴースト』のメッセージ!

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こんにちは、YU@K(@slinky_dog_s11)です。

最終回放送から約2ヶ月半遅れで、『仮面ライダーゴースト』TVシリーズ全話の視聴を終えた。当ブログを以前から読んでいただいている方はご承知と思うが、『ゴースト』は1クールあたりまで「ゴーストウォッチメン」と題して毎週必ずレビュー記事を投稿していて、年明け辺りからそれが止まってしまっていた。これは単に私が面倒臭がった末の怠慢なので弁解の余地は無く、加えて、「作品が面白くなかったからレビューを止めた」という訳ではないことは、表明しておきたい。と、このような疑い(?)をかけられてしまう程に、『ゴースト』という作品は大手を振って「良かった!」とは喜べない諸々を抱えていたのかな、と、改めて全話観てもその感覚が拭い切れない。

1年前、私が『仮面ライダードライブ』の総括記事を書いた際に、要は「惜しい」という感想を残した。グングンと上達していく役者陣、魅力的なキャラクター、公権力が存在するミステリー要素。『ドライブ』は沢山の“魅力的な点”があったが、主に販促事情を中心としたスケジュールの関係か、積み上げや消化が少々不足した展開になってしまったのかな、と。「やりたいことは分かるけど、前振りが足りていないから・唐突だから惜しい」。個人の感想として、自分の中でこのようにまとまっているのが『ドライブ』だ。





では、果たして『ゴースト』はどのような作品だったのか。前述の「ゴーストウォッチメン」で当時書いていたように、私は本作の1クール目はかなり気に入っている。というのも、平成ライダーではある種画期的ともいえる“1話完結”を推し進めていたからである。『電王』が確立し、以降『ダブル』で定着した「ゲストキャラクターのお悩みに対応しつつ2話前後編でストーリーを構成する手法」は、途中の『鎧武』が連続ドラマを掲げた1年を除き、『ドライブ』まで脈々と受け継がれていた。『ゴースト』の1クール目は、ゲストのお悩み相談を1話の中で消化しながら毎週新しいアイコン(=新フォーム)を登場させるという驚異のハイペース作劇で、シリーズとしては非常に目新しいものがあった。

島本和彦氏を怪人デザインに起用した結果か、怪人もゴーストと同じく「素体にパーカーを被る」というデザインに統一されており(後のガンマイザーを除く)、そのために新造箇所がパーカー部分のみで済む=怪人を1話で1体倒すことが出来たのも、“1話完結”に大きく貢献していたことと思う。とはいえどうしても割を食うのはドラマパートで、タケルの「ヒーリングハグ」で心を繋げてお悩みが解決するという驚異の省エネテクニックが横行したことは、色んな意味で印象深い。そんな部分がありつつも、毎週必ず新しいフォームが出てくることで単純に“目が楽しい”し、偉人の属性が多様なおかげでアクションもバリエーションが豊かで、組み換えとガジェット合体で多彩な顔を持つガンガンセイバーに好感を持ちながら鑑賞していた。





総じて、1クール目は「確かに描き足りない部分はあるものの、補って余るテンポの良さと画的な楽しさがあった」というのが私の感想だ。では、更に続けて、2クール目以降がどうなったかというと、「確かに描き足りない部分はあるものの」が次第に肥大化していき、「補って余るテンポの良さ」が失われていくという、まさかの展開に突入していった。加えて、前作『ドライブ』でも見られた「前振りや積み重ねの不足」がそこに上乗せされ、おそらく描きたかったであろう「眼魔世界の設定」や「タケルの主張」が全く伝わってこないという事態を引き起こしてしまった。

改めて振り返ってみると、『ゴースト』は「個性と繋がりの物語」だったと感じる。タケルは父から受け継いだ「英雄」という信条を念頭に、武蔵をはじめとする“強い個性”ともいえる「英雄」の力を借り、仲間との「繋がり」を常に意識しながら戦っていく。自身の蘇生が目的としてあるものの、そこをハングリーに追い求めていたのはむしろ周囲の方で、彼自身は常に第三者を思いやるというまさに仏のような存在であった。対する眼魔は「個を奪うことが平和」という概念で世界が構築されており、あちらの世界の住民は肉体と魂が分離され、肉体を一種の人質にすることで完全に統率された社会を完成させていた。「個と繋がり」を絶った末に平和を実現した眼魔が、その方法論で人間社会に攻めてきた、という図式である。

タケルは、幼馴染であったマコト兄ちゃんの心を(自分=自分の仲間と)繋ぎ、アランの心を自分を通し人間社会そのものと繋ぎ、諸悪の根源であった仙人=長官を自分に惚れさせ、最後にはアデルの心をその他大勢と繋げた。こうやって書き出すとまるで『フォーゼ』のように「みんなを友達にしていく」作劇でもあったのかな、という気もするが、それに対する眼魔軍団が「個と繋がりを奪った末の完全なる平和」を掲げて攻めてくるのは、構図としてはむしろ綺麗ですらある。タケルはムゲン魂を通して「人間の感情」を学び、そして英雄を通して「色んな人間の生き方」を知り、「繋げる」という手法の様々なアプローチや側面を会得していく …というストーリーだったと思うのだが、思うのだが、思うのだが……。





全体構造を整理するとタケルと眼魔は綺麗に表裏一体なのだが、タケル自身が何かを学んだらしきことは度々描写されるも、それが本当に彼の“成長”として積み重なって観えたのかと問われれば、疑問符が浮かんでくる。どこまでいっても、何度やっても、ゲストキャラクターには「信じて!繋がり!希望を!可能性を!」という定型文を“無条件に”投げかけるばかりで、個々の人生に一見寄り添っているようで非常に利己的なカウンセリングにしか見えないパターンが頻出した。加えて、タケルもマコトもアランも、何の脈略もなく「命、燃やすぜ!」「俺の生きざま~」「心の叫びを~」と“叫ばされて”“必殺技を打たされる”ばかりで、そのキャラクターに生気が薄く、作劇の傀儡として動かされている感覚が常に拭えなかった。

結果、「個性をはぎ取らんとする敵」に「個性と繋がりで立ち向かう」はずの主役サイドが、タケルを筆頭にどうにも「個性に欠けたストーリーの駒」として見えてしまうという、作品の根幹に関わる致命的なバランス感覚の欠如が、こちらは“ゆっくりと確実に”積み上がってしまっていた。

父の信念を屈折した形で継ごうとするアデルと、ひたすらに繋がりと可能性を主張するタケル。その禅問答カウンセリングバトルは『ゴースト』らしさの塊でもあったが、つまりはその「描き方」が、単に下手だったな、と。タケルは常に第三者のことで頭を悩ませ、アデルは後半ずっと「父の掲げた理想の社会を~ガンマイザーとひとつに~タケルは特別で~」という結論が見えそうで一向に見えない悩みにずっと振り回されていた。そう、お話そのものが、「進んでいそうで進んでいない」のである。これも、前述の「タケルが一見成長していくストーリーに見えてそれが実感できない」と同じである。





仙人がタケルに与えたゴーストドライバーとマコトが眼魔世界で与えられたゴーストドライバーが全くの同型であったことから、観ている側は自ずと仙人のマッチポンプ展開を警戒し、構える。そしてやがて登場したイージス長官は仙人と瓜二つなのだが、散々引っ張った末に“とっっってもあっさりと”同一人物だったことが判明する。長官がタケルの父と対立した過去を持っていたのは面白かったが、どうしようもなく種明かしが下手であった。

その他にも、知将・イゴールとアカリの科学者ライバル構造も、「面白くないギャグ描写であるビンタで目を覚ます」「ザコ眼魔からアカリを庇って、あろうことか一撃で絶命する」というまさかの落とし所であり、目が点になった。アカリ関連でいえば、ディープコネクト社の社長・ビルズとの偽りの友好関係が着々と築かれてはいたものの、そのゴールは「普通に台詞で説明される」というものであった。

上で「積み重ねが足りていない」という趣旨の感想を書いたが、『ゴースト』は『ゴースト』なりに積み重ねていたのだと思う。仙人と長官、デミアプロジェクトとビルズ、アカリとイゴール、マコトと偽マコト。しかし、ことごとくその“落とし所”が安易すぎたために、ただただ鑑賞しながら「え?」と声を漏らす作業を生んでしまった。果てには、タケルは実質のラスボスであるアデルが父の仇だと知ってもなお“繋ぐ”説得を試みるも、その中身は「実は父親はお前のことを想っていたぞー!」の事実後だしジャンケンであり、「1年間、様々な感情や生き方を学んできたタケル」の大舞台としてはあまりにも陳腐であった。

ふわふわと、話が進んでいるようで進まず、積み重ねは次第に自壊し、登場人物は深みを見せず台詞を言わされるだけの立ち回りで、主人公の成長が実感として伴わず、1クール目にあったスピード感も失われ、そうして『ゴースト』は、永久に解けないクロスワードパズルを解かされているような物語として終幕を迎えた。





それでも、タケルが最終回で「周囲の皆にとっての英雄」になったのは、テーマの本懐だと感じた。マコトやアカリ、アランや御成、皆にとっての英雄は、武蔵でもエジソンでもなく“タケル”なのだ。そしてその認定が行われた背景には、タケルがどんな時でも他者を優先し、誰かと関わり、自己を犠牲にしてでも“人と人の心を繋ぐ”ことに奔走してきた経緯がある。同時に、英雄をはじめとする先人からの、“学び”だ。つまりこれは、メインターゲットである子ども達をはじめとした全ての視聴者が「誰かにとっての英雄になれる」というメッセージでもあるし、そのためには「他者を助け先人に学ぶ」ことが大事であると、非常に普遍的で真っ当な方法論を教えてくれている。

それがつまりムゲン魂が体現した「無限の可能性(=誰もが英雄になれる)」であり、そのためには、眼魔が否定した「個性」や「繋がり」を大切にしなければならない。各人が「個性」を発揮すれば眼魔世界のような“完全なる平和”は遠のくかもしれないが、それによって起こる人間関係のいざこざも含め、清濁全部ひっくるめても「人間には無限の可能性がある」。多様性を尊重する『ゴースト』の肝は、タケルが英雄に認定された時点で綺麗に帰結しているのだ。

だからこそ、惜しいのだ。『ドライブ』とはまた違う“惜しさ”だ。常に命の大切さを説く死者の「切なさ」が、「覚悟」が、「成長」が、観ている側の心にどうしても届かない。しかし、物語は「届いた“てい”」で進行していく。こうやって、次第に何故か物語と自分との距離が開いてしまう哀しさ。『仮面ライダーゴースト』は私にとって、キャッチコピー通り「切ない物語」であった。無論、「虚しい」というニュアンスでの「切なさ」だが。





「お前… 高校生だったのかよ…」という最終回特別篇での驚きの裏で、「まあ、ゴーストだし仕方ないな…」と思ってしまった自分が切ない。『ゴースト』は今後も『平成ジェネレーションズ』やOV『仮面ライダースペクター』と続いていくが、タケルの成長と多様性の尊重、個の尊さと繋がりが持つ意味、この辺りの「伝えたかったであろう部分」が描かれることを、心から願ってやまない。


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結騎了の映画ランキング2016 EPISODE I

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こんにちは、YU@K改め、この記事でもご紹介した通り、結騎了(ゆうき・りょう)(@slinky_dog_s11)です。

今年も、年末恒例の劇場鑑賞作品振り返りの季節がやってきました。今年は仕事もプライベートも何故かやたらと忙しく、近年でも最低クラスの34作品しか映画館で鑑賞できなかったという、中々に後悔の残る一年でした…。しかも、ブログでの映画レビューもほとんど書けず終い。ということで、例えば2014年はこんな感じで、続く2015年はこんな感じでTwitterでやっていたのですが、今年はブログでしっかり文字数をかけてレビュー&ランキングをしていこうかな、と。

日程としては、本日公開の当記事が最下位である34位~21位まで、明日公開の記事で11位まで、その翌日に10~6位、そして最終日に上位5作品という流れで、刻みに刻んでいきたいと思います。年末の暇つぶしにでも、どうぞお付き合いいただけますと幸いです。


【目次】
EPISODE I(~21位)
EPISODE II(~11位)
EPISODE III(~6位)
・EPISODE IV(~1位)


※毎年のことですが、言うまでもなくあくまで「私が」面白かったか否かというランキングなので、作品の面白さやクオリティを保証するものでは全くありません。また、核心部分のネタバレは避けますが、所々展開に触れる文章がありますので、ご了承ください。







34位『デスノート Light up the NEW world』

今年トップクラスの「やってくれたな」作品。というのも私は本当に『デスノート』という作品が大好きで、連載当時からの原作はもちろん、映画にアニメにドラマにミュージカル音源をヘビロテするくらいに敬愛しているのだけど、その一連のメディアミックスの最新作がこんなにもお粗末な出来だったことに、とにかく“残念”の二文字しか出てこない。

実写版『GANTZ』や『アイアムアヒーロー』を手掛けられた佐藤信介監督だけあって、絵作りは良い。ハッタリが効いているし、何より夜の情景の切り取り方は惚れ惚れする画面ばかり。が、肝心のストーリーが本当に意味不明で、これがあの『デスノート』かと驚愕するばかり。新規登場人物が軒並み「大丈夫かよ」ってくらいに迂闊なのは百歩譲ってまだ良いとして、作中・そしてファンの中でも“神”格化されている「夜神月」というキャラクターにこんな後付け設定を持ってきたのは心底納得がいかない。

作中最大のどんでん返しとなる展開も、くどくどと連なる説明が時系列的に破綻しているし、何よりこの『デスノート』という作品において「理屈が破綻している」ことがどれだけ「やっちゃダメ」なことなのか本当に分かっているのだろうかと、観ている最中は謎の冷汗をかいていた。リンゴの報酬もなくノートによる殺害に加担するリュークにも目が点になったし、最後の展開も「悪と正義の伝導」的な意味でやりたいことは分かるのだけど、そこに観ているこちら側が微塵も感情を乗せていけないのが本当に辛かった。そう、“本当に”辛かったのだ。







33位『クリーピー 偽りの隣人』

これは単純に好みの問題でこの順位なのだとことわっておきたいが、私にとっては「は?」からの「いやいや」からの「ふざけるなよ」に変遷する感想が胸の中に溢れた作品だった。香川照之の怪演は流石の安定感だし、西島秀俊の日常が静かに侵されながらどうしようもなく謎に囚われていく過程も面白いのだが、如何せん後半の展開が納得いかなかった。前半は、不穏な空気をモブの群衆で表現したり、ぐりぐりと動き回るライティングで川口春奈の精神状態を画面いっぱいに演出したりと、映像的な見所も多かった。加えて、サイコホラーな家族が罪を犯しながら転々としている背景が次第に明かされ、そのミステリーな進行も悪くない。

が、前半でじわりじわりと積み上げたミステリー要素が、後半になると途端に型崩れする。いきなり常識的にあり得ない空間(セット)が出現したかと思えば、前半でしつこいまでに積み上げてきた「日常への浸食」が「薬による篭絡」にすり替わる残念さ。そして、いくらビターエンドといえど納得のいかないクライマックス。黒沢清監督作品なのでこういう“味”になるのはある程度予測は出来たものの、あまりにも「前半で期待させられた物語展開」をチープに裏切ってくる描写が多く、要は、残念に感じてしまった。

ああいう殺人方法、そして遺体遺棄の方法があるのは良い。家屋の位置関係に追われる側も追う側も共通点を見出すのも面白い。それらは、サイコホラーとして“そそられる”側面がある。しかしそれ以前に、この起承転結が形作る空気感そのものに、私はノレなかったのだ。







32位『仮面ライダー1号』

大変失礼ながら、「藤岡弘、主演で仮面ライダーの映画を撮る」のはおそらくこれが最後になるだろうからして、歴史的にこの事実だけで十分に意味があるのは、大いに分かる。分かるのだけど、それと「私が楽しめたか」は当然ながらイコールではない訳で、そう考えると正直「うーん」としか言えなくなってしまう。世界を渡り歩き戦い続けてきた伝説の仮面ライダーが、装いを新たに日本へ凱旋。新たなショッカーの陰謀と戦いを繰り広げる。その話の筋はこの上ない王道で良いと思うし、正直序盤は普通にワクワクして観ていた。現行作品である『仮面ライダーゴースト』の若々しいメンバーと圧倒的な存在感を持つ本郷の対比も良かったし、偉大なる先輩が教えること・そして若い後輩に気付かされること、そういった関係性がドラマの中で成立していたのも良かった。

しかし、あまりにも「本郷猛」というより「藤岡弘、」の映画として尖りすぎていたのかな、というのが本音である。本郷を演じられた当時からの役者人生・周囲からの声や期待・諸々のインタビューを読むに、「本郷猛」と「藤岡弘、」が自ずと融合してしまっていたのは分かるし、一介の仮面ライダーファンとしてそれはそれで頭が上がらない事案ではあるのだけど、それが完全に作品を斜め上の方向に引っ張ってしまっていたのかな、と。妙な勢いとメッセージ性ばかりが強引に先走り、作品のテンポや納得感をほとんど置き去りにしてしまったように思える。宗教映画としてのドライブ感に当てられてしまえば加速度的に興奮が湧いてきたのかもしれないが、残念ながら私はそうはなれなかった。







31位『ブラック・スキャンダル』

なんというか、捉えようがないというか、掴みどころがないというか…。ジョニー・デップがまるで血の通わない極悪ギャングを演じる印象から受ける「ダークさ」「シリアスさ」に比べて、物語そのものの「単調さ」「フックのなさ」が“あだ”となったのかな。ここまでキツい人間が周囲を恫喝し立ち回っていくにも関わらず、恐ろしいほどに物語進行のテンポが悪く、ずーっとジメジメジメジメしている感じ。かといってその世界観に二重にも三重にも惹きこまれるかと言ったらそうでもなく、正直感想を書いている今でさえ「何を書けばいいのだろう」となっている程。大変失礼ながら、ぶっちゃけていうと、「記憶に強くは残らない」類の作品であった。







30位『君の名は。』

これもまた「ノレなかった」の一言で終わってしまう話ではあるが、この作品を通して再確認できたのは、自分は映画鑑賞において「予測を超えたストーリー展開」を強く期待してしまう人間なのだろうな、ということ。というのも、『君の名は。』は最初のOP映像で暗示されたストーリーがそっくりそのまま進行して終わる話で、「突然体と精神が入れ替わった年頃の男女が・最初は互いを罵り合うもバタバタと日常を送るうちに次第に惹かれ合って・突如何かしらの障害が訪れて離れ離れになって・そこで互いに実は恋していたことが分かり・色々あって障害を乗り越えて再会して終わるんだろうな」というあのOP映像から予測できるストーリーがびっくりするくらい“そのまま”描かれたので、私にとっては「え?」という戸惑いが強かったのだ。「“そうだろうな”と思われる物語がそのまま展開されること」はこんなにも観ていて「しんどい」のかと、そう感じてしまった。

ネットの感想を色々と読んで、その多くに挙げられていたのが震災との関連性・暗喩だったのだけど、それならそれで「結局助かる」という答えを出してしまった以上自分の中ではどうしても納得がいかないし、かといって男女が入れ替わるシチュエーションそのものにも特段惹かれないし、予告や宣伝で流れていたあの主題歌もエモーショナルな盛り上がり所でガツンと鳴るのかといえばそうでもないし、ことごとく私のアンテナをすり抜けていく要素が多かった。映像面・アニメーション技術の側面で「すげぇ!」となる部分は沢山あったものの、前述のアレコレを押し上げるには足りず、といった感じで。







29位『スーサイド・スクワッド』

撮影時点での紆余曲折におけるチグハグ感が綺麗に完成物にまで影響してしまったなあ、というのが第一印象。おそらく『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のように「クセの強い愛すべきヤツラが何だかんだちょっといい感じの行動しちゃうぜ」という塩梅を狙ったのだろうが(序盤のキャラクター紹介パートにも顕著にそれが見て取れる)、どうにもそれが成功しているとは思えない。ドラッギーな色彩感覚とキレた世界で生きるキャラクターたちの個々の魅力そのものは非常に面白く、なんだかんだ「このメンバーで続編やります」とあればホイホイ観に行くだろうとは思う。とはいえ、「なぜ彼らが団結して」「なぜ敵を倒して」「それがなぜ“結果的に”人類を救う形になるのか」という肝心の縦軸の打ち出し方が、本作は恐ろしく下手だった。

「敵はコイツでした!バーーン!」という驚愕(?)の真実が明かされて登場人物たちが「ええ?」となるも、それは観ている側には何十分も前に示されていたことだったり、バーのシーンで“それらしく”身の上をぶっちゃけながら本心を交わし化け物討伐に向かう流れも、上っ面の雰囲気は抜群だが肝心の動機の面で全然納得がいかなかったり…。せっかくの魅力的なキャラクターたちのドラマが、そこから全くもって「繋がったり」「発展したり」「二倍にも三倍にもなったり」していかないのだ。この手の物語ならば、掛け合いや相乗効果で1+1が5にも8にもならないと、面白くない。

キメのカットそのものはキレッキレで、ジョーカーを囲う刃物だったり、グツグツ豆乳風呂だったり、バットマンの見事な仕事ぶりだったり、部分部分は「おお!」というシーンも少なくない。だからこそ、縦軸のチグハグさが浮き彫りになってくるのだけど。







28位『ゴーストバスターズ』

かの有名なSFコメディ映画のリブート版だが、撮影段階での紆余曲折や本国での様々な反響については、私なぞが今更語ることではないだろう。ぶっちゃけて言うと本作は結構楽しめた方なのだが、なぜこの順位になっているかというと、率直に「ギャグがスベっていたから」。アドリブ加減もあったとは思うが、(例えば霊柩車登場シーンに顕著だったが)、コント的にはもう十分に“落ちている”のにそこからダラダラとツッコミやボケが続くようなシーンが多く、そのテンポ感についていけなかったなあ、と。例えるなら、「ますだおかだ」の岡田圭右さんが獲得する笑いは登場一発目(ギャグ開始時点)がピークだが、その後もダラダラと展開して観ているこちらが心苦しくなる感じがあって(あくまで個人の感想です)、このリブート版『ゴーストバスターズ』も“岡田的”な笑いのテンポがあったような気がしてならない。コメディ映画でここにノレなかったのは辛かった。

とはいえ映像面は大変面白く、観た人の多くが挙げているような「ホルツマン無双」だったり(メインテーマが熱く鳴り響くのは最高だが、どうせなら4人全員が活躍するシーンで鳴らして欲しかった気も…)、3D効果を最大限に狙ったフレームアウトの遊び心だったり、見所も多い。また、「なぜあのロゴなのか」がしっかり劇中で拾われたり、ストーリー展開はまるで1984年版の鏡写しのような忠実さであったりと、このリブート版が意図するところは漏れがなく伝わってくる作りだったと思う。「世間にはじかれた面々が“幽霊狩り”で街を救う」というカタルシス面も、しっかり継承されていた。







27位『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』

「コミックを現実社会に落とし込んでいくのがマーベル映画(MCU)」で「コミックの世界を現実の情景に再現していくのがDC映画(DCEU)」とはよく言ったもので、先の『スーサイド・スクワッド』と同じく、キメのカット作りには本当に目を見張るものがあった。圧巻のバトルシーンだけではなく、ふとした瞬間の構図や陰影の処理が止め画で魅せるアメコミならではのものであり、そういう意味ではあらゆるアメコミ映画以上にアメコミ映画だったな、と感じる。

しかし肝心の話の筋・運び方がどうにもお粗末で、長い上映時間のほとんどを退屈寄りで過ごしてしまった感は否めない。肝心の2大ヒーローの激突や、和解からのワンダーウーマン参戦の大乱戦など、クライマックスに立て続けに紡がれるドラッギーなアクションシーンは非常に楽しかったが、そこに向かうまでの前振りや積み重ねが(あそこまで時間を割いた割に)不親切だったかな、と。ブチ上がるアクションシーンはそこに至るまでの物語が綺麗であれば尚一層ブチ上がるものだが、本作はどうにも片手落ちであった。

スーパーマンが9.11のように世界情勢を一変させ、それによって生まれたバットマンと歴史の裏で活躍したワンダーウーマンが手を組み、やがて世界各地の超人に渡りをつけていく。ユニバース展開の偉大なる先駆者であるMCUが「それぞれ個別に活躍するヒーローが集結する」方法を取ったのに対し、追随するDCEUは「ヒーローにより情勢が一変した社会で、その影響によって交わっていく超人たち」という積み上げ方を選んだ。このアプローチの違いがどういう決着(?)を迎えるのか、期待が高まるばかりだ。







26位『劇場版 仮面ライダーゴースト 100の眼魂とゴースト運命の瞬間 / 劇場版 動物戦隊ジュウオウジャー ドキドキサーカスパニック!』

まず上映順に、『ジュウオウジャー』から。この作品が持つポテンシャルは実は全く突飛でも新しいものでもなくて、戦隊ヒーローとしての王道さ、そして何より堅実さが最大の魅力だと思っている(むしろ前作『ニンニンジャー』のポテンシャルが斜め上すぎた。褒めてます)。この劇場版は、その王道&堅実さに裏打ちされた熱いストーリーとして、非常によくまとまっていたように思う。『ジュウオウジャー』は異種族混合戦隊だからして「誰かと誰かが分かり合う・繋がる」というテーマを掲げているが、そのTV本編のテーマをしっかり銀幕でも実行してみせた、その作り方そのものも堅実さに溢れている。脚本の香村純子はより一層「ポスト小林靖子」としての側面を強めるなあ、とも感じたり。

一方の『仮面ライダーゴースト』だが、こちらもジュウオウ同様に「TV本編をそのまま銀幕でも実行してみせた」感が強い。とはいえ、こちらは「う~ん」というニュアンスだが。主人公であるタケルの肉体の扱われ方や、〇〇〇を食べるというエンディング、CG盛り沢山のムゲン魂の見せ場など、やりたいこと・魅せたいものはとても伝わってきた。が、TV本編同様にどうにもチグハグ感が拭えず、縦軸が探しにくい禅問答バトルは、でかでかと「英雄の村」と書かれたのぼりに精神をオメガドライブされるばかりであった。そもそも、タケルの「消える消える詐欺」が頻出イベントすぎて、全くエモーショナルに盛り上がらないのだよ…。







25位『ファインディング・ドリー』

正直普通に面白かったし、並の映画よりははるかに高いクオリティを誇っているとは思う。流石のピクサー最新作である。が、だからこその足枷のようなものが目立ってしまったかな、とも感じてしまった作品。スペクタクル・冒険劇・愛すべきキャラクターたち・社会風刺・ドタバタ劇・チェイス・小ネタ・テンドン・感動の涙・ハッピーエンド。そういうピクサー映画がおよそ高水準で混ぜてくる要素が、今作はあまりにもごった煮になっていたと言うべきか、“ひとつ”にまとまり切れていないと言うべきか…。

ドリーが抱える過去やその生まれながらのハンディは、当たり前のように我々の現実社会を模しているように感じることができる。大海原に対する水族館は閉塞感を覚える息苦しい現代社会の暗喩とも解釈できるし、そこで決められた行動から逸脱してみせる解放感・カタルシスが狙うところも、大いに分かる。が、今作はあまりにもフィクションにおけるドリーたちの活躍が作中実社会に影響をもたらしすぎていて、フィクションながら現実離れを覚えるという奇妙な感覚すら生んでしまった。(主にクライマックスの展開)

映像面では、水の表現は言わずもがな、タコのハンクが今にも醤油をつけて食べたいくらいに素晴らしくタコだった。







24位『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』

ハリポタシリーズの大ファンとして高い期待値で臨んだ反動もあったと思うが、少々肩透かしというか、食い足りない感じが残ってしまった作品。映像面はもう文句なしで、様々な魔法生物の生き生きとした姿が魅力的だったし、何より主人公・ニュートの“儚さすら感じさせるイケメン”具合がピカイチであった。彼の飄々とした立ち回り・キリッと光る眼光・抜けた表情と、流石新シリーズの主役に選抜されただけはあるな、と。

しかし肝心の物語が、爽快感やカタルシス、何より「楽しさ」に欠ける作りだったのが惜しい。虐待を受けた人間が爆発させる闇、そして辿る末路。虐待はハリポタシリーズのメインテーマであり、かくいうポッターもその半生は虐待と切っても切り離せない。ハリポタ世界では虐待からのホグワーツが対比構造にあったのに対して、ファンタビでは魔法世界内の虐待がその被害者に酷な結論を与えてしまう。そのテーマの重さや魔法界の闇の側面を描くことそのものはいかにも「ハリポタ的」だが、それは原典シリーズの後半で幾重にも重厚にやり尽した部分でもあり、新シリーズでも“そっち”をやるのか、という感覚に襲われてしまったのだ。もっと単純明快に、魔法生物にワクワクして・燃えて・萌えて・時にビビって・ときめいて、そういう物語が観たかったのかもしれない。「新シリーズ1作目」なら、余計に。

グリンデルバルドを話の中核に据えるのは面白いし、ヨーロッパとはまた毛色が異なるアメリカの魔法社会を描くのも魅力的だ。この時代のアメリカにおけるアメリカン・ドリーム感覚というか、ヨーロッパのような伝統・気品とは違うハングリーさやせわしなさがまた新鮮で、ニュートがしっかり“異物”に見える演出も見事だった。舞台説明は一通り終了しただろうし、ぜひ2作目に期待したい。







23位『疾風ロンド』

「東野圭吾原作×阿部寛主演のコメディ&ミステリー」と聞いて想定されるものはしっかり観られる作品で、裏を返せばそこから突出した面白さや予想外の魅力には欠ける作品。ある意味、座組みにこれだけ真摯な出来上がりもないだろう。二転三転する展開は流石の東野作品だし、阿部寛の緩急見事なコメディ演技も安定の出来。ムロツヨシや堀内敬子といった粒ぞろいな面々が脇を固めるのも隙がなく、確かにこれで面白くない訳がないのだ。ただ、それに尽きてしまう面もあるのだ。

クライマックスでは、大島優子とムロツヨシの雪上大立ち回りが豪快に演じられ(もちろんスタント込みだと思われるが)、おそらく(作中で単語まで出てきていた)GoProで撮られた臨場感抜群の“滑り”シーンは、一見の価値がある。とはいえ、そのシーンをやりたいがための演出がちょっと雑すぎたかな、という思いも拭えない…。あと、スキー場で飲むビール、めっちゃ美味しそう。







22位『手裏剣戦隊ニンニンジャーVSトッキュウジャー THE MOVIE 忍者・イン・ワンダーランド』

実質「トッキュウジャー真の最終回」と言うべきか、むしろ当時現行だったニンニンジャーのドラマパートが割を食うくらいに、トッキュウ側が美味しかった作品。ラストの巨大戦が夜戦&水辺の廃工場という劇場版では中々観れないシチュエーションだったり、忍者村での驚異的なスタントアクションだったり、ただ両戦隊のキャラクターや物語だけに甘んじない攻めの姿勢が観れて面白かった。まずもって開始早々の「トッキュウ1話オマージュ」だけで泣ける。トッキュウジャーは流石の小林脚本と言うべきかTV本編終盤の展開がエモーショナルすぎて、もはや「彼らが存在しているだけで泣ける」という訳の分からない感覚を誕生させてしまった…。今作はその感覚をしっかり土台にした作りだったし、ニンニンジャー側もついつい勢い一辺倒になるところを「ちゃんと帰ってくる」というホームドラマに寄せたのは良かった。ただ、無いもの強請りかもしれないが、その感動に浸っている自分の尻を良い意味で蹴り上げてくるドライブ感は無かった。







21位『X-MEN:アポカリプス』

これにてX-MENの新三部作が終了…と言いたいところだが、実情は累計六部作の完結編(?)のような性格がある一本。ブライアン・シンガーが抱いているであろう『X-MEN: ファイナル ディシジョン』への恨み節がこれでもかと炸裂する作品で、もはやこの作品だけ観た人は意図するところがほとんど分からないのではないか、とも思えてくる。その執拗なまでの恨み節を是と取るか非と取るかで感想が分かれそうではあるが、確かにここまで綺麗に過去作と向き合った最新作を作られると、正直ズルい。良い意味で、ズルい。

とはいえ私個人は『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』がとても好きで、新たなプロフェッサーとマグニートーのフレッシュ&ホモセクシャルな雰囲気が気に入っていただけに、「新たなX-MEN」が結局「これまでのX-MEN」に統合してしまった寂しさというか、惜しさのようなものも感じてしまう。ブライアン・シンガーが得意とする広いセットでの特撮アクションは、由緒正しいアメコミ映画でもあり、ともすれば泥臭い撮り方とも言えてしまい、私が覚えた『ファースト・ジェネレーション』のオサレさとは一種対極にあるのかもしれない。まあ、前述の“統合”については、前作『フューチャー&パスト』の時点で既定路線だったとも言えるが。(余談だが、『フューチャー&パスト』の改変によって『デッドプール』という作品が成立できるという“逃がし方”は、本当によく考えたな、と思う)

マイケル・ファスベンダー演じるマグニートーの森での一連のシーンはとっても「X-MEN!!!」という感じで、この差別を土台としたやりきれなさ、それでも果敢に前を向いて戦っていかなければならない宿命を、キャスト陣が真摯に演じていたのは痛いほどに伝わってきた。「X-MENサーガ」は今後もウルヴァリン完結作やデップ―2と続いていくが、やはり私はどうしても、マイケル・ファスベンダーとジェームズ・マカヴォイの本シリーズでの活躍が今一度観れないものかと、渇望してしまうのだ…。


※※※


ということで、まずは21位まで。気付けば9,000字超で、長々と書いてしまった…。明日更新予定の「結騎了の映画ランキング2016 EPISODE II」では、20~11位を語ります。どうぞよろしく。


【目次】
EPISODE I(~21位)
EPISODE II(~11位)
EPISODE III(~6位)
・EPISODE IV(~1位)


※映画・特撮の感想(レビュー)など、全記事一覧はこちら
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【過去記事】
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結騎了の映画ランキング2016 EPISODE II

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こんにちは、YU@K改め、この記事でもご紹介した通り、結騎了(ゆうき・りょう)(@slinky_dog_s11)です。

昨日から4日連続更新予定の「結騎了の映画ランキング2016」。2日目となる本日は、20~11位に該当する作品について、語っていきたいと思います。では、早速いきましょう。


【目次】
EPISODE I(~21位)
EPISODE II(~11位)
EPISODE III(~6位)
・EPISODE IV(~1位)


※毎年のことですが、言うまでもなくあくまで「私が」面白かったか否かというランキングなので、作品の面白さやクオリティを保証するものでは全くありません。また、核心部分のネタバレは避けますが、所々展開に触れる文章がありますので、ご了承ください。







20位『アーロと少年』

この作品を振り返って一番に出てくる感想は、「水がすげぇ」。開始すぐの川を流れる水のCGアニメーションが本当に驚異的で、「ついにここまできたか」と感慨を覚えてしまったほど。近年だと『モンスターズ・ユニバーシティ』におけるサリーの毛並みにもえらく感動したが、ピクサーの技術追求には本当に頭が下がる。

さて、肝心の本編だが、「恐竜が隕石で絶滅しなかった世界」というIFストーリーが土台となっており、畜生のように泥まみれで生きる人間と言語を操る恐竜が互いに心を通わせ、そして別れを通してイニシエーションを完了させる物語。「異種族ふれあいモノ」「家に帰るまでの冒険譚」「勇気を出して子供から大人へ」という王道すぎる要素の組み合わせなので、正直最初から最後まで目新しさは無い。途中で途端に現実を突き付けてくるパートがあり、それ自体にはひどくビックリしたが、確かに恐竜が生きる時代を描く以上、“あれ”をやらない方が嘘だよな、と。

首長竜家族ならではの農耕や建築模様など、「恐竜が更に進化して社会を築いていたら」という自ら掲げた問いかけに対するアンサーがいちいち面白く、そういう「なるほど」「よく考えたな」が頻出する序盤の一連のシーンは、まさに自分の子供に観せたいな、と思う。下手な知的玩具よりよっぽど効果がありそうだ。







19位『キング・オブ・エジプト』

予告やポスターから受ける「古代エジプトアドベンチャー!」な雰囲気とは裏腹に、実は聖闘士星矢ばりの黄金アーマーを身にまとい空を駆ける神々のガチンコバトルムービーである。言わずもがな、メインキャラの吹替えにジャニーズ・玉森くんが起用されていることからも分かるように、その手の要素は宣伝においてオミットされ、「ワクワク楽しい冒険譚!」な雰囲気が強調された。なので、今年でも随一の「好きそうな人に届いていないんじゃないかムービー」である。ぜひ、気になった方には鑑賞していただきたい。

とはいえ、その方向性に付随されると嬉しいカルト的な面白さには少々欠けていたのが本音だ。追放された傲慢な神は、非力な人間を利用しつつ復権を狙い、いつしかその人間との友情に目覚める。様々な世界を巡り、多彩なキャラクターが登場し、最後には派手なバトルも待ち受けているのだけど、ギリギリのところで爆発力に欠けるのが本当に惜しい。この手の映画は「うおおお!予想外にキてるぞこれ!」と叫びたいものだけど、中々届いていなかったなあ、と。でも、メキメキっと鎧を装着するシークエンスや、『シビル・ウォー / キャプテン・アメリカ』ブラックパンサーでお馴染みのチャドウィック・ボーズマンが演じるトト神のおもしろキャラっぷり、まるでPS4っぽいアングル&画質で襲い来る謎モンスターなど(褒めてます)、細かな見所は本当に多い。







18位『映画 暗殺教室~卒業編~』

何かと槍玉に挙げられる漫画の実写映画化だが、この『暗殺教室』二部作は本当によく出来ていたと思う。以前「前編」は個別でレビュー記事を書いたが、イベントの串刺し団子になってしまわないようにしっかりと要素を足し引きし、映画的な盛り上がりを設定し、しかし原作の持つテーマや持ち味はしっかり持続させる作り方。それがこの「卒業編」でも継続されていたなあ、と。その分、原作既読者には目新しさは無いのだけど、ひたすらに真摯な作り方が映る方向性。必要な部分はしっかり“変えている”のが良い。(最後にオリジナル大乱戦で映画的な見せ場を設定するなど)

私は『暗殺教室』という漫画作品に「驚異的な構成力」を強く感じていたが、その原作者・松井先生のアイデアが原作をはじめ実写映画・アニメにまで降り注ぎ、ほぼ同時期に3つの作品がしっかり同じ結末を迎えるという前代未聞なフィナーレを飾ったのが本作である。つまりは、松井先生の構成力が漫画の誌面だけでなく現実のメディアミックス作品にまで反映されたようで、もはやこの「卒業編」が「この(原作連載終了の)タイミングで原作通りに終わったこと」そのものに、強い感慨を覚えてしまうのだ。

惜しい点としては、二宮くんを回想シーンで起用した結果か、ちょっとそこの部分に尺を取りすぎていたかなあ、と。二宮くんのメロドラマを魅せたい(&観たい層が多い)ことは重々分かるのだけど、一本の映画として俯瞰した時のバランスはちょっと崩れていたのかも。







17位『マネーモンスター』

ジョージ・クルーニーが財テク情報番組の司会者に扮しイケイケの生放送を開始するも、そこに見知らぬ男が拳銃を持って現れる。「テメェのせいで大損だ!」と生放送をジャックするも、実はその裏にはウォール街の闇が隠されていた。…というストーリーで、あれよあれよと生放送が継続されたまま人質と犯人が協力体制になるまで話は転がり、遂には目的の相手に落とし前を付けさせるために奮闘する話運び。リアルタイムサスペンスということで、番組の放送開始からそれが終わるまで、事件の一部始終と映画の進攻がほぼ同じ所要時間で描かれる。だからこその興奮と、手に汗握る逃走劇。適度なワクワクとヒヤヒヤが味わえる手堅い一本となっている。

流石のジョージ・クルーニーと言うべきか、お調子者・雄弁な司会者・慌てふためくオッサンといった様々な顔色を見事に使い分けている。何より、彼が演じる司会者が自身の仕事に強いプライドと自信を持っており、だからこその熱意が遂には犯人との呉越同舟に至るという流れが面白いのだ。また、待ちに待ったお仕置きタイムもしっかり用意されているので、カタルシスというか、溜飲が下がるというか、しっかり「スカっと」させてくれるのもポイントが高い。ラストの展開における後味には賛否が分かれるかもしれないが、あれ以外の落としどころも難しかったのかもしれない。







16位『ちはやふる 下の句』

カルタを題材に、つまりは「何かに一生懸命取り組むことが人の心を打ち、人と人とを繋ぐ」というド直球なテーマを見事に描き切った一作。前編にあたる「上の句」は凸凹チームが結成していく面白さとロジカルに戦う現代カルタの魅力が印象的だったが、後編「下の句」は主要3人のキャラクターが織り成す三角関係を導入に、主人公・ちはやの賢明さが「カルタの楽しさに気付いていない者」「カルタの楽しさから遠ざかろうとする者」の心をガシガシ変えていく構成。だからこそ、当然のように「上の句」とは少し毛色が違う仕上がりになっていて、そこに多少の物足りなさを覚えた人も少なくはないと思う(私もその一人)。

「上の句」に引き続き、アイドルの可愛さと女優の綺麗さを絶妙に併せ持った広瀬すずが、終始オーラを振りまいていたのが印象的だ。他の出演者も5年後くらいにはそれぞれ立派に主演を張っていそうなメンバーばかりで、よくもまあ、このメンバーで青春部活映画を撮ったなあ、と。数年後、この作品を観返した時に妙な感慨に襲われそうだ。

ただ、個人的にどうしても許しがたいのは、吹奏楽部の演奏シーン。話の流れとしては対立関係にあった吹奏楽部がカルタ部を激励してくれる感動のくだりなのだけど、演奏者の指の動きや姿勢が流れている音楽と全く合っておらず、ズレにズレにズレッズレだったこと。なぜよりにもよってこういうシーンで手を抜いてしまうのか…。







15位『デッドプール』

“あの「デッドプール」を映画にするとはどういうことか”という議題に対して、非常に真面目にやったな、という感じ。むしろ個人的には、アンサーがあまりにも真面目すぎてちょっと面食らったほど。だってデッドプールですよ、デッドプール。もっと作品の枠組みからぶっ壊してくる歪な仕上がりになるだろうと身構えていたが、完成物は恐ろしく綺麗に端的にまとまったラブストーリーだったという。いや、これはこれで良い。良いのだけど、もっと“狂気的な馬鹿さ”に振ってもよかったのかな… という思いは拭えない。(「四次元の壁突破」も、日本においては偉大なる手塚治虫からして割と頻繁に突破していた訳で)

とはいえ、その「綺麗にまとまったラブストーリー」は本当に綺麗に仕上がっており、それ自体にほぼ不満は無い。「デッドプール」という命名に辿り着くまでの人生と、あのレザー生地を着こんだヒーロー(?)の苦しみ。苦い思いと悔いる過去を自ら盛大に茶化しにかかることで誤魔化そうとする“かっこよさ”。それが本作におけるデッドプールのアイデンティティになっており、ただのお調子者ではない悲哀の側面が、ヒーローらしからぬ彼をよりヒーローっぽく魅せる。

『ウルヴァリン:X-MEN ZERO』という黒歴史を安易に「なかったこと」にはせず、「同じ世界観の中で起きた歴史改変の結果、デッドプールは生まれ変わった」という結論に持っていったのは、力技ながら心底感服。加瀬康之が主演吹替だったのは、本当に嬉しかった。







14位『ズートピア』

「差別批判を叫ぶ差別されている側が無意識に抱いてしまっているかもしれない差別意識」という非常に突っ込んだテーマを恐ろしく可愛い動物たちで描くウルトラCな一作。事前の予告で「ズートピアの隠された秘密に近づいてしまったな!」的な話の筋をモロバレしていたので、いくらなんでも観せすぎでは… と恐る恐る鑑賞したが、実はそれが話の折り返し地点にも満たないポイントだったのでとっても驚いた。と、同時に、前述の「差別意識」に関するテーマがまるで原罪で殴ってくるかのような「ズルさ」で、この作品を観て素直に「あ~面白かった」となる“大人”はさてどれだけいるのだろうかと気がかりでもある。「真に差別のない世界」には、果たして「差別を意識すること」と「差別を意識しないこと」のどちらが近道なのだろうか。

そんな差別云々を除いても、「動物たちの大都市」というフィクション設定に対するアイデアがとっても面白い。肉食食動物・草食動物の共存にはじまり、生存環境の違いを解消するための街づくりから、背の高さ・頭の位置の異なる生物が共に生きていくためのインフラなど、「よく考えたな」「すげぇな」と呟きたくなる要素が盛り沢山。この手のアイデアが重なり合って“動物世界”という設定を強固にしていくのだな、と、ディズニー様々な想いが溢れる。







13位『劇場版 ウルトラマンX きたぞ!われらのウルトラマン』

田口監督渾身の「平成ガメラ2っぽい予告」にワクワクさせられてからの鑑賞だったのが印象深い。ティガ直撃世代な人間なのであの音と共にティガが登場するだけでグッときてしまったり、しばらく観ていなかった巨大夜戦だったり、好きな要素が多すぎて困るという、嬉しい作品だった。マイケル富岡の「ウザさ」がギリギリのところで調整されていて(彼のラストカットを含めて)、あんな事をしでかした割に愛されキャラな風味に落ち着いているのは凄いなあ、と。防衛隊×怪獣×ウルトラマンの大乱戦も唯一無二な映像だった。

ゼロは相変わらずのゼロだったり(ルイルイとの絡みがちゃんと拾われたのも良い)、ネクサスが遺跡の情景で戦っていたのが原典を思わせてウルっときたり、本当に細かなネタが多く楽しめる一本だなあ、と。メインの3ウルトラマンと3怪獣の対戦相手が捻ってあるのも興味深く、ひとくちに市街地戦といってもバリエーションの追求が成されていた。個人的にはX本編のようなお祭り感の強い感じを想像していたのだけど、思っていたより数倍は「どストレート」な内容だったので、新時代のウルトラ映画決定版としてマン世代・ティガ世代の人には是非観て欲しいと思う。







12位『スティーブ・ジョブズ』

彼の人生における特別な発表会“の、開始直前まで”を三度描くという、中々に意欲的な構成が面白い作品。この順位なのは私が単にマイケル・ファスベンダーの大ファンというのもあるのだけど、彼が本作で醸し出す「傲慢さ」「カリスマオーラ」「ダメな男」らの魅力は本当に輝いていたと思う。今や誰もが歴史の1ページとして知っている「Macintosh」や「iMac」。それらが世界に発表される直前に、何が起こっていたのか。大筋は彼の伝記を基にしているというが、流石にこう上手くイベントが連なる訳はなくて、しかし、「舞台裏というタイムリミットがある環境で彼のその時々の人生苦を描く」というアプローチは本当に面白いと思うのだ。

特筆すべきは、3つの発表会において使用しているカメラを変えていて、その時代に応じた画質に調整されていること。ザラっとした質感の80年代から、デジタル画質の90年代後半まで。その差を見比べて観るのも楽しかった。「天才の人生」というとオールタイムベストな映画に『アマデウス』があるが、芸術の世界に没頭するのも、IT技術の世界に入り込むのも、本質はそう変わらないのかもな、とも思ったり。







11位『ローグ・ワン / スター・ウォーズ・ストーリー』


こんなにも「結末が分かっている映画」もそうそう無い訳だが、その分かり切った結末に向かってグイグイとお話の推進力が増していったのには本当に驚いた。前半はシーンの切り替えが多く、登場人物も知らない固有名詞ばかりを交わすので、「ん?ついていけるか?大丈夫か?」と思いながら鑑賞していたが、ビーチ戦からが本領発揮の作品であった。よく挙げられる「キャラ描写薄すぎ問題」だけど、確かにそう感じつつ、「でも彼らは本筋サーガからすれば明確な脇役なのでキャラを濃く描く必要はない」という論にも頷きつつ、かといってそれは「一本の映画」として観た時は何のフォローにはならないよなあ、とも考えたり…。『スーサイド・スクワッド』が狙ってしくじったように、もっとキャラクターを濃く描いて“アイツら感”を印象付けてからのあの結末というのも、アリだったのではないかな、と。

本筋サーガではどんどん破壊されていく帝国軍の兵器がこんなにも恐ろしいとは思わなかったし、あのベイダー卿がスター・ウォーズ全作の中でも随一なんじゃないかというくらいに驚異的な強さを見せつけたし(ラスト数分のあのシーンには鳥肌が立った)、まさかの出演や小ネタ、ファンサービスも盛り沢山といった、およそ「スター・ウォーズのスピンオフに期待されること」はしっかりやり尽したのかな、と。とはいえ、「あれがスイッチだ!」ジャーン!あからさまなレバースイッチ!!…なくだりとか、もうちょっとスマートにやれそうなシーンが散見されたのも本音である。

最後に。まさにこれを書いている2016年12月28日、女優のキャリー・フィッシャー氏が亡くなられました。謹んで哀悼の意を表します。


※※※


ということで、「EPISODE II」でした。次の更新は、明日、「EPISODE III」です。ついにトップ10に突入します。どうぞよろしくお願いします。


【目次】
EPISODE I(~21位)
EPISODE II(~11位)
EPISODE III(~6位)
・EPISODE IV(~1位)


※映画・特撮の感想(レビュー)など、全記事一覧はこちら
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【過去記事】
【総括】閉眼!『仮面ライダーゴースト』のメッセージ!
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結騎了の映画ランキング2016 EPISODE III

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こんにちは、YU@K改め、この記事でもご紹介した通り、結騎了(ゆうき・りょう)(@slinky_dog_s11)です。

仕事も納まって、酒の席が続いて、いよいよ年末という感じがしてきました。しかし改めて、これから毎年この年の瀬に『スター・ウォーズ』の新作が公開されるというのは、本当に凄いことだなあ、と。ディズニー恐ろしい。…ということで、何の前置きにもなっていませんが、本日から「結騎了の映画ランキング2016」はトップ10に突入します。どうぞお付き合いください!


【目次】
EPISODE I(~21位)
EPISODE II(~11位)
EPISODE III(~6位)
・EPISODE IV(~1位)

※毎年のことですが、言うまでもなくあくまで「私が」面白かったか否かというランキングなので、作品の面白さやクオリティを保証するものでは全くありません。また、核心部分のネタバレは避けますが、所々展開に触れる文章がありますので、ご了承ください。







10位『SCOOP!』

あの『バクマン。』の大根仁監督、そして主演が福山雅治。奔放なゲス中年パパラッチの生き様を描く …とあれば、面白くない訳がない。福山雅治は本当に何をやってもキマるなあ、と、同じ男なのにスクリーン相手に見惚れてばかり。風俗嬢とヤってても、ゲスなセクハラしてても、何故あんなにかっこいいのだ…。中盤で福山演じる都城静の過去が語られ、つまりは世間的には軽蔑されるパパラッチでさえ彼にとっては立派な“戦場”だったことが明かされる。そして、そのプライドを突き詰めた終盤の展開。決して誰に褒められることもなく、認めてくれるのも同じ業界の人間だけで、その狭い世界の中で人間関係を構築し、共依存と自堕落の渦で葛藤する男。自分もこんなふうに「堕ちたい」とは思わないが、それでもこうやって何かに異常なプライドを持って打ち込んでいる人間は、やはり魅力的なのだ。同じ男だからこそ尚更、そう思ってしまうのかもしれない。

リリー・フランキーの見事な怪演は鉄板モノで、彼が物語を牽引する後半の展開は思わず(良い意味で)目を塞ぎたくなる。二階堂ふみも堂々とした体当たり演技と脱ぎっぷりで福山のオーラに負けていないのが素晴らしい。端役までニヤリとさせるキャスティングが多く、「邦画の秀作」として外れのない一本だと思う。ただ、福山のアイドル性にちょっと引っ張られたかのようなラストの演出は、個人的には無かった方が好み。

大根監督は原作にあたる『盗写1/250秒』を本当に溺愛されているようで、2011年頃からこういうツイートが残っていたり。本当に念願叶った映像化だったのかと思うと、こちらまで妙に感慨深くなってくる。


「盗写1/250秒」はヤフオクで見かける度に買って結局手元に5本ある。日本中のこの映画のVHSを集めようと思ったが意味が無いのでやめた。ご興味のある方はどうぞ。あ、新品6500円・・・欲しい・・http://t.co/nSPEjja

— 大根仁 (@hitoshione) 2011年7月22日

ほんと誰も知らない青春映画の大傑作「盗写1/250秒」。斉藤慶子も最高だが、個人的原田芳雄のベストアクト。これ、今のパパラッチに置き換えて連ドラにリメイクして満島ひかり主演でやりたくて企画書作ったな。 pic.twitter.com/3PwG1EtmGu

— 大根仁 (@hitoshione) 2013年5月1日






9位『GANTZ:O』

ガンツ直撃世代として、そもそもこの原作がこんなにも美麗でハイクオリティなフルCG長編映画になっているという事実にもう感謝しかない。ありがとうございます。本当にありがとうございます。この漫画は、作者がおそらく頭の中で描いているであろうSF映画的な超絶アクションが独特のタッチで誌面に起こされている作品で、今回のこの『GANTZ:O』は、その「作者が脳内で描いていたであろう映像」の映像化のような印象を受ける。つまりは、「漫画の映像化」ではなく「漫画の元になった空想映像の映像化」とでも言えるだろうか。原作者が各種インタビューで御礼と太鼓判を並べまくっていることからも、そんなふうに思えてならない。

妖怪たちのヌメヌメとした質感、そして次々と繰り出されるSF重火器と脳天に響くSE。エロ可愛いヒロインたちも十二分に魅力的だし、主人公・加藤のどこまでも馬鹿正直な正義感も清々しい。加藤がガンに飛びついたりするスローモーション演出がちょっと頻度的にくどいかなあ、とも思いつつ、もう映像面では本当に感謝しかない。誰もが『パシフィック・リム』あたりを思い出したあの巨大戦も、ビルの影にある巨体演出が見事にキマっていた。更には、原作においては完全に「前後ありき」な大阪編を一本の映画にするための足し引きとアレンジもお見事。最後にちゃんとサプライズもあるし、原作未読者も、既読者も、誰もが入り込める塩梅になっている。

あと、主題歌の「人間ビデオ」がいかにも「ガンツ!!」という歌詞と音楽なので、今年相当ヘビロテしました。












8位『何者』

まずもって、完全に「予告勝ち」だった。中田ヤスタカ作曲の主題歌に乗せて、旬な若手俳優・女優たちが青春で斬り合うあの感じ。あれだけでもう見事にノックアウトだ。内容は単に「就活って辛いぜ!」なものではなく、あくまで就活はひとつのケースとして、人間が誰しも持つ「他者と自分の距離感」や「大人になるとはどういうことか」という議題についてひたすら突き詰めていく内容。要は別にこれ就活作品じゃないのだ。だからこそ、面白い。

一生懸命にやっている人を冷ややかに見てしまう。駄目だと分かっているのに、その人の粗が目についたりする。嫉妬心から心の中で悪口を言ってみたりする。SNSに誰相手とは分からぬように批判を書き残してみる。そうやって誰だってどこかでやってしまったような小さな「罪」を、「Twitter」という現代的な“繋がる”ツール、「就活」という他者に対し自分を良く魅せる戦場、これらの装置を通して出力する。出てきたものは鋭利に研がれた刃のようなもので、観ている人の胸を一刺し。まさにそういう作品だった。

大人になるとは、どういうことなのか。他者を認め、多様性を知り、自分の限界を認めることなのか。何者でもなかった主人公が何者かになろうと奮闘し、挫折し、そして何者が交差する群衆に消えていく。現代型就活に対する皮肉も面白く、ぜひ大学生や若い世代にこそ観て欲しい作品だ。







7位『仮面ライダー平成ジェネレーションズ Dr.パックマン対エグゼイド&ゴースト with レジェンドライダー』

坂元監督は以前から「東映版アベンジャーズを撮りたい」と色んなインタビューで答えていて、その念願叶ったのかな、というお祭り作品。加えて自分の中では、昨年のMOVIE大戦が残念な出来だったのと、『仮面ライダーゴースト』TV本編が非常に惜しい展開ばかりだったのもあって、それらで下がったテンションを見事にブチ上げてくれた“加点”部分が大きい。よくよく考えると敵の思惑とかよく分からない部分もあるのだけど、タケルがTV本編以上に命を燃やし、永夢がTV本編以上に患者のために命をかけるその姿は、やはり単純にかっこよかった。「変身できるとかできないとか関係ない!」と啖呵を切るタケルの姿は、間違いなく1年間戦い抜いた男の姿であった(作中経過が半年というのは置いておいて)。「変身しなくても仮面ライダーだ」は更に先輩のドライブが辿り着いたアンサーでもあるので、先の台詞は二重にも三重にも熱い。

挿入歌が流れ出してからの強化フォーム無双や、各ライダーのメインBGMや主題歌など、盛り上がりどころでしっかり外さずやってくれるのは流石の坂本監督だなあ、と。逆に、完全に「いつもの坂本監督」が炸裂している映画なので、氏の作風が肌に合わない人は今作も普通に肌に合わないだろうな、とも思う。あと、せっかく先輩ライダーたちが豪華に集合したのに個別マッチに分かれてしまったのは残念で、例えばウィザードと鎧武の共闘、ドライブとゴーストが一緒に必殺技を放つなど、そういった組み合わせも観てみたかった。この辺りが心残りである。







6位『ミュータント・ニンジャ・タートルズ 影(シャドウズ)』

もう本当に、お見事。今回も製作に名を連ねるマイケル・ベイの“節”が炸裂しているが、しかし「見やすい!」「分かりやすい!」「ダレない!」の未曾有の三拍子。想像してみてください… あの『トランスフォーマー』ばりのバトルシーンが… 普通に位置関係が分かりやすかったりするんですよ…。ストーリーも分かりやすい展開ながらタートルズの決意と覚悟が見え隠れする塩梅で、本当に素晴らしい。異形の姿の意義、影から大好きな街を守る大切さ。若造連中がしっかりと大人に成長していくシークエンスに、一切の無駄がない。

また、相変わらずのミーガン・フォックスが「どエロい」感じで、本当にありがとうございます。今作はまるで彼女のファッションショーのような性格もあり、そういう意味でも楽しめる。2016年は色んな映画が大ヒットを飛ばして、この映画はちょっとそれに埋もれてしまった感じはあるけれど、絶対に間違いのない「娯楽映画の決定版」なので、ぜひ沢山の人に観て欲しいです。


※※※


ということで、明日の最終日は上位5作品の更新になります。最後までお付き合いいただけますと幸いです。


【目次】
EPISODE I(~21位)
EPISODE II(~11位)
EPISODE III(~6位)
・EPISODE IV(~1位)


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【レビュー】「Fitbit Alta」防水&時計機能付きスマートリストバンドを10日間使ってみた雑感

結騎了の映画ランキング2016 EPISODE IV

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こんにちは、YU@K改め、この記事でもご紹介した通り、結騎了(ゆうき・りょう)(@slinky_dog_s11)です。

4日連続更新企画でお送りしてきました『結騎了の映画ランキング2016』。おかげさまで本日が最終日になります。残る上位5作品のレビューと、簡単なまとめ(のようなもの)を書いて、本企画の締め・並びにブログ書き納めにしたいと思います。ではでは、最後までどうかお付き合いください。(あと、通知用LINE@がひと月の上限数に達してしまったため、記事更新通知が出来ない状態にあります。申し訳ありません)


【目次】
EPISODE I(~21位)
EPISODE II(~11位)
EPISODE III(~6位)
EPISODE IV(~1位)

※毎年のことですが、言うまでもなくあくまで「私が」面白かったか否かというランキングなので、作品の面白さやクオリティを保証するものでは全くありません。また、核心部分のネタバレは避けますが、所々展開に触れる文章がありますので、ご了承ください。







5位『オデッセイ』

改めて今振り返ると、多少なりと『シン・ゴジラ』に通ずるところもあるのかな、と。事故で火星に取り残された主人公を救うために、世界中の人々と国々と選りすぐりの変人(という名の天才)が集まり、技術の粋を結集させる。映画体験は“没入感”が大きなポイントを占めると思っているが、この作品はまるで「プロジェクトX」のドキュメンタリーのように進行していく性格もあり、その一部始終をリアルタイムで追って応援する「いち地球人」の感覚に自分を持っていける。『シン・ゴジラ』のヤシオリ作戦は日本人の一般市民として映画に“没入”できるが、この『オデッセイ』は地球人としてそれが出来る、という訳だ。

しかし一方の主人公は割と元気に火星で過ごしていて、好きな音楽をかけながら鼻歌交じりにジャガイモを飼育したりする。しかしその一見能天気な様子は、言わずもがな絶望的なまでの孤独の裏返しでもあり、彼が地球との僅かな時間の交信に一喜一憂したり、壊れてしまったビニールハウスの前で絶望したりすることによるその演出的落差が、より一層心を揺らす。また、この手の遭難映画によくある「帰りを待つ家族描写」が割と徹底的に省かれていたのも印象深い。“それ”をやりたい訳じゃないんだよね、という。

詳しくは個別のレビュー記事でも書いたが、何よりクライマックスの救出シーンが素晴らしかった。ここまで高めに高めた期待値や、観ている側の「助かってくれ~」な祈りのような感情に、しっかりと演出で応えてくれる。ただ助かって良かったね、ではなく、とても芸術的な画作りで仲間と再会を迎える主人公の姿は、思わず涙を誘う。ハラハラして、泣いて笑って手に汗握る。そして感動し、小気味よく終わる。見事なエンタメ大作として、末永く復習鑑賞していきたい。







4位『シビル・ウォー / キャプテン・アメリカ』

以前の『エイジ・オブ・ウルトロン』のレビュー記事に、「明朗にやってきたMCUが遂に影の領域に振り戻した」というような感想を書いたが、その影はまだまだ序の口だったなあ、と思わせてくれた作品。世界的にヒットを飛ばしているシリーズでここまで踏み込んじゃったか、と。その製作側の覚悟が面白いし、興味深いし、しかしアベンジャーズが綺麗に分裂してしまったのは、やはり寂しさも覚える。この作品がなぜ『アベンジャーズ』ではなく『キャプテン・アメリカ』なのかは私も公開以降何度も考えたが、つまりはどんな状況でも・それがたとえワガママだったとしても「意固地に貫き通す男」であるキャップの物語だったのかな、と。国のために命を捧げる覚悟で実験に参加し超人化した男が、遂には人間味が薄れた完璧超人として一種の暴走領域に突入する。今作のキャップには、私は(良い意味で)人間味が希薄に感じた部分もあったので…。

どうしても引っかかるのは「トニーの〇〇を〇〇したのがアイツだという事を、キャップはいつの時点で知っていたのか(そして黙っていたのか)」という部分。この答えによって、キャップという人間に対する理解が割とガラッと変わりそうではある。シリーズ過去作を観ても確定的なタイミングはどうやら描写されておらず(「あの時かな?」というのはあれど)、答えによっては「ずっと一緒に戦ってきた盟友に隠し事をしていた」という属性が付与されることになる。まさか“知ってて”AOUの薪割シーンとかやっちゃってたの? …と思うと、心がザワついて仕方ない。というくらいに、このシリーズはキャラクターの描き方が多重的だ。

そんなモヤモヤもありつつ4位に置いたのは、映像的な満足度の異常なまでの高さが大きい。空港での乱闘シーンはまさに「実写版スマブラ」だが、誤魔化しの効かない昼間のライティングで、属性もスタイルもサイズも様々な超人たちが殴り合う。ただのドリームマッチではなく、互いの戦闘スタイルを分かった者同士が縦軸・横軸に柔軟に動きながら相手を制圧しようとする。アイデア・笑い・燃えらもしっかり含まれており、この一連のシーンにマーベルスタジオの経験値がこれでもかとブチ込まれている感じだ。見事までの構成力に、天晴れである。







3位『ちはやふる 上の句』

『下の句』まで観終わってから考えると、この二部作併せて「俺の好きな要素」が完全にこの『上の句』に寄ってたな、と。そりゃあ、『下の句』に食い足りなさを感じる訳だ…。「(世間的には)マイナー競技の興味深さ」「凸凹チームの結成劇」「熱さや友情“だけじゃない”ロジカルな勝ち方」。これらの要素が『上の句』に集約されていて、一転、『下の句』はそれらを全部説明済みとして綺麗に廃し、「三角関係」「カルタで繋がる思いと人」というメンタル部分に寄せた。二部作どちらも鑑賞することでこの『ちはやふる』が描きたいテーマが100%に満ちる訳だけど、やはり自分としては『上の句』の要素が単純に好みだったかな。非常に燃えて、そして見事に泣かされた。もっと悪い意味でキラキラした青春映画かと舐めてかかった自分を殴りたいくらいに。

競技カルタはやはり世間的にはマイナー競技な訳で、その面白さや戦法をじっくり劇中で説明してくれたのが面白かった。「句を最後まで聞く必要はない」「手の払い方・ねじ込み方やその角度にテクニックがある」「勝負は一瞬で決着する」。しかも、扱う内容は完全に文化系なのに、畳をズバンッ!と弾いてその札を取りに立つ一連の空気感は完全に体育会系のそれなのだ。このバランスが最高だし、「『上の句』の面白さ」の半分くらいは「競技カルタそのものの面白さ」だったなあ、と。チーム戦で横並びに一気に腕が払われるあの爽快感がたまらないのだ。(余談だが、チーム戦のルールやその前後の雰囲気にどこか『ヒカルの碁』を思い出したりもした)

広瀬すずの圧倒的なオーラに目を吸い込まれながら、所々視覚効果がシャレオツなのもあって、とても目に優しい邦画だったなあ、と。上ではウダウダ書いたが、後編にあたる『下の句』が面白くないということは決してないので(要は期待値と好みの問題なので)、ぜひ未見の方は一気に二部作鑑賞なんかに洒落込んでいただきたい。







2位『シン・ゴジラ』

なんというか、まあ、圧倒的だった。観る前に死ぬほどモヤモヤと抱いていた「国産ゴジラがついに復活するのか」「海外ゴジラと比べられてどういう感想が溢れるのだろう」「エヴァ続編を叫ぶ層の不用意なヘイトを覆す魅力はあるのだろうか」「国産特撮怪獣映画の明日はどっちだ」などのオタクトラブルを見事に吹き飛ばしてくれた。それがクリアだったか・叶ったかという話ではなく、観終わったあと、“そんなこと”は綺麗さっぱり頭から抜けてしまっていた。それほどまでに、「喰らえっ!」という“圧”のある作品だったし、見事に満腹にさせられたなあ、と。

細かい感想云々は個別レビュー記事で書いたのでそちらを読んでいただきたいが、「ゴジラ」という海を越えて有名なキャラクターを一度白紙に戻したその手口は、本当に素晴らしかったと思う。東宝怪獣映画としての“前作”にあたる『進撃の巨人』の特撮シーンも見事なものだったが、それとはまた毛色の違う映像表現の追求が成されたのは、今後の国内特撮の継続・発展に間違いなく寄与していくだろうな、とも思う。しかし、あまりにも『シン・ゴジラ』が「『シン・ゴジラ』として」面白すぎて、これは逆に広く既存のゴジラシリーズに興味を持たせるには適さないかも、と思ったりも。そうやって、またこの「ゴジラ」というコンテンツでネットのオタク同士「あーだこーだ」やれたここ半年が、単純に楽しかった。特撮が好きで良かった。そう思わせてくれたのだ。

続く長編アニメーション版『GODZILLA』といい、キングコングとの対決が予定されている海外版『GODZILLA』といい、「ミレニアム期」から続くシリーズ(?)は、言うなれば「バリエーション期」なのかもしれない。様々なクリエイターが、既に確固たるイメージと実績のあるキャラクターを新たなアプローチで描いていく。とっくに成熟し、悲しきかな衰退を予期させてしまっていたコンテンツだからこそ、この方向性は本当に嬉しい。







1位『劇場版 遊☆戯☆王 THE DARK SIDE OF DIMENSIONS』

これが1位じゃなきゃ、私の半生が嘘になる。こう断言したくなるほどに、完璧な映画だった。遊戯王直撃世代が抱く、今新たに続編が作られることへの期待・不安を全て受け止めて完璧に成仏させるストーリー展開。今年何度も映画館で泣いたが、他作品の累計よりこの映画一回の水分量の方が多かったと思う。ここまで完全無欠な「ファンの期待に応えた」映画を、私は他に知らない。

個別のレビュー記事で死ぬほど熱く語ってしまったのでもはや書くことがあまり無いのだけど、単純にアニメーション映画として驚異のクオリティだったな、とも思う。どこまでも美麗な映像がグリグリとノンストップで動き続けるあの130分間は、本当に極上だった。

……って、…ああ、もう、なんだこれ、語れねぇよ。むしろ語れねぇ。言葉はねぇんだ。「俺の好きだった作品が!最高の形で!帰ってきた!!」…これに叶う“理屈”なんて世界中どこにもねぇんだ!あるはずがないんだ!ありがとう!本当にありがとう!生きてて良かった。この世界に生を受けて良かった。お父さん、お母さん、そして全てのご先祖様。俺をこの映画に辿り着かせてくれて本当にありがとう。ありがとう、それしか言葉はない。Thank You!謝謝!Danke schön!Merci!ありがとう!心の底から、ありがとう!!!


※※※


…ということで、これにて『結騎了の映画ランキング2016』、閉幕になります。ここまで読んでいただいた方、本当にありがとうございました。来年は今年よりもっと沢山の映画を観たいなあ、と思いつつ、子供も生まれるし、おそらく仕事も今より忙しくなるしで、より一層時間のやりくりが求められていきそう…。まあ、趣味に義務感が生まれたら本末転倒なので、来年も「好きに」「自由気ままに」、映画やその他諸々の感想を呟いたり・書いたりしていきたいと思います。何卒、来年もよろしくお願い致します。

それではまた来年、そして『結騎了の映画ランキング2017』をお楽しみに。


【目次】
EPISODE I(~21位)
EPISODE II(~11位)
EPISODE III(~6位)
EPISODE IV(~1位)


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『別冊映画秘宝 特撮秘宝 vol.5』に「田口清隆監督&『ウルトラマンオーブ』紹介コラム」を寄稿しました
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リドサウルスとエメゴジ。『原子怪獣現わる』と原作『霧笛』。ハリーハウゼンとブラッドベリ。

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こんにちは、結騎 了(@slinky_dog_s11)です。

その昔、私の特撮の師匠(?)にあたる叔父から観せてもらった映画、『原子怪獣現わる』 (原題『The Beast from 20,000 Fathoms』)。あの「初ゴジ」こと54年版『ゴジラ』に大きな影響を与えたとされる作品だが、観たのが幼い頃だったというのもあって、「恐竜がカクカク動く白黒映画」という記憶しかなかった。昨年末にAmazonをふらふらと見ていたところ、なんと本作のBlu-rayがたったの1,000円程度で売られていることを知り、『シン・ゴジラ』で怪獣映画熱が高まったこのタイミングで復習するのも悪くないと即購入。約二十年ぶりにリドサウルスの暴れっぷりを鑑賞した。







▲YouTubで動画を検索すると、公式配信のものを発見。300円でレンタル視聴できるが、あと数百円出せばディスクが買えます。


監督はユージン・ルーリーだが、やはりこの映画は特撮の巨匠で知られるレイ・ハリーハウゼンの名前が先に挙がるだろう。コマ撮り・ストップモーションの名手として名高い彼の本格デビュー作が、この『原子怪獣現わる』にあたる。レイ・ブラッドベリの短編小説『霧笛』が原作とされているが、実はこれにも逸話があるようで…。(詳しくは後述)

ストーリーは良くも悪くも捻りは無く、「北極の水爆実験で目覚めた太古の肉食恐竜・リドサウルスは、海流に乗ってついにマンハッタンに上陸!しかし倒された!」というもの。発端は水爆実験だが、それによる影響や変異は特に劇中で説明されず、単に氷漬けにされていた恐竜が目を覚ました、という扱いを受けている。劇中でも熱核兵器に関するテーマや、ひいてのアンチテーゼは全く存在せず、ひたすらにリドサウルスを中心に置いた怪獣パニックで完結する作品だ。むしろ、リドサウルスを目撃した主人公やその他の登場人物が周囲からメッタクソに「キ〇ガイ扱い」を受け、精神を病む者まで現れるが、それでも怪獣の存在を証明しようと奮闘する様に尺が割かれている。一応の恋愛描写もあるが、あまり物語的には機能していない。





ハリーハウゼンによるストップモーションで描かれるリドサウルスだが、やはり先に「ゴジラ」で育ってしまった私には、正直に言うと、「カクカク感」を完全に拭い去ることは出来ない。とはいえ、これが製作された背景や用いられた技術を踏まえて観ると、グリグリと動き・尻尾をくねらせながらマンハッタンで暴れまわるリドサウルスの雄姿には、どこか純粋な感動を覚える。ビルに突撃し、車を踏みつけ、人を容赦なく捕食する様も、中々の迫力がある。あとはやはり、音が重要だ。唸り声や咆哮など、目でいくら「カクカク」を感じたとしても、耳は嘘を付かない。逃げ惑う街の人々も迫真の演技だし、盲目の男性が逃げる人並みの下敷きになるシーンは思わず目を覆いたくなる。

クライマックスは遊園地のコースターでの戦いが繰り広げられる(舞台装置は、特撮セットの見せ場を作るためのハリーハウゼンによる提案だとか)。その血液に毒性があるリドサウルスは、単に重火器で退治できない。現に何人もの兵士が毒素にやられ、昏睡状態に陥ってしまっている。そのため、首元にかろうじて残した傷跡に主人公が研究していた放射性アイソトープを撃ち込むことで、機能を停止することが出来るというのだ。(主人公と恋仲になる研究助手の女性が序盤で「彼のアイソトープの研究は~」と言及しているのが細かい)

かくして、主人公とゴルゴ13並みの職人オーラを漂わせた狙撃手の計2人がトロッコに乗り込み、コースターを登る。高い狙撃位置からの一発が見事命中するも、リドザウルスは苦しんで暴れまわり、コースターを破壊。辺りが火の海になる中、2人は無事地上に脱出し、燃えるコースターをバックにリドサウルスは息絶えるのであった…。





…という、このラストカットだが、やはり怪獣映画が好きで観ているような人間からするとある程度作中の怪獣に感情移入してしまう訳で、相当に歯切れが悪いというか、ビターなエンディングのように思えてしまう。狙撃担当の2人は地上で待っていた兵士たちから喝采を持って迎えられるが、リドサウルスは相当苦しそうにのたうち回り(ここのストップモーションがまた飛びぬけてよく出来ている)、唸り声が次第に小さくなり、燃え盛るコースターを背についに事切れるのだ。そして「THE END」が ジャジャーン! と出てくるが、水爆実験という人間のエゴで勝手に起こされて遂には退治されてしまうリドサウルスを想うと、どうにもやり切れない。まあ、街を盛大に破壊して普通に人間を食べたりしていたので、「人里に降りてしまった熊の理屈」として致し方ないのだが…。

この後味の悪さは、やはり98年公開の『GODZILLA』、通称「エメゴジ」と通ずるところがある。なぜ“やはり”なのかというと、この「エメゴジ」の製作・脚本に名を連ねるディーン・デブリンが、映画雑誌のインタビューで「ハリーハウゼンのリメイクだと資金が出なかったからゴジラのリメイクということにした」という超絶暴露をしちゃっているという背景がある。

改めてリドサウルスとエメゴジを比較してみると、その大きなイグアナらしきフォルムからして、似通った点をいくつか挙げることができる。「エメゴジはゴジラなのか」という話題は特撮オタク界隈では何周も繰り返されてきたものだが、「初ゴジ」が『原子怪獣現わる』の影響を受けていることを加味すれば、遠縁の親戚くらいは言ってしまっても差し支えないだろう。まあ、個人的にはエメゴジも“あり”だと思っているが、当時の日本人が持つ最大公約数の「ゴジラ像」と大きくかけ離れていたことは、もはや言うまでもない。






▲以前中古で購入した「キネ旬ムック 動画王 VOL.6 巨大怪獣特集(1998年)」にも、「エメゴジ」のメッタクソな酷評が載っていた。「そこにゴジラはいなかった」とまで…。


『原子怪獣現わる』を改めて観て、今ならハッキリ言えるけど、エメリッヒ・ゴジラは(世間的な否定要素は別の意味で)ゴジラじゃないなあ。たしかにありゃリドサウルス・リブートだ。キャラとしての人格がリドサウルスなのよ、エメリッヒ・ゴジラ。

— 神谷純 (@junkamiya) 2014年7月14日
▲アニメーション監督の神谷純氏が「キャラとしての人格がリドサウルス」とツイートされているが、まさに言いえて妙だと思う。


さて、上でも書いたように本作はレイ・ブラッドベリの短編小説『霧笛』が原作とされているが、これにはひとつ逸話があったことをつい最近知った。というのも、買ったBlu-rayの特典映像としてレイ・ブラッドベリとレイ・ハリーハウゼンの「レイ対談」が収録されており、そこで製作の経緯が語られていたのだ。大の仲良しとして、更には若い頃は宇宙を目指すクラブに所属していたという恐竜・SF大好きなおじいちゃん2人組みとして、和気藹々とした雰囲気で対談(実際はワーナーで行われたトークショー)が進んでいく。

後半、『原子怪獣現わる』の製作経緯に触れると、実は当初は『霧笛』とは全く関係のない企画(脚本)だったことがブラッドベリから語られる。「私に持ち込まれたシナリオを読んでびっくりした。私が新聞社に送った(掲載した)短編とよく似ていたから」、と。その後、製作サイドは慌ててブラッドベリに原作映画化の権利買取を持ち込み、かくして名実ともに「『霧笛』原作」になったというのだ。よくできた偶然である。





ハリーハウゼンの作る特撮が面白くて、先日『タイタンの戦い』(81年公開版)のBlu-rayも購入。この物語に出てくるメデューサやクラーケンの尻尾のうねり方は、間違いなくリドサウルスのそれであった。本体がゆっくり動く際にも、尻尾だけはグリグリとうねる。

…などと、一体何を語りたいのかよく分からない記事になったが、せっかく『原子怪獣現わる』のBlu-rayを特典映像まで鑑賞したので、その記録として思うままに書いてみた。まあ、ここまで語っておいて申し訳ないが、本当にぶっちゃけて言っちゃうと、リドサウルス関連以外は見所に欠けまくる作品である。恋愛シークエンスはどこにも着地しないし、怪獣の存在を証明しようと奔走する主人公の努力が実るシーンも無い(普通に上陸して存在が判明しちゃう)。尻尾をグリグリと動かしながら哀しく絶命するリドサウルスの雄姿(?)が観たい方にだけ、オススメである。


原子怪獣現わる [Blu-ray] https://t.co/yq0JtjPelA #Amazon

— 結騎 了 (@slinky_dog_s11) 2017年1月3日

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茶化された復讐劇の先に『ファイアパンチ』。映画監督トガタは何を目的としたキャラクターだったのか

キラメイカーオウガ見参!ヒーローショーチーム「スターライト!」の挑戦!

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こんにちは、結騎 了(@slinky_dog_s11)です。

特撮を好きで観てオタクをやっていると、やはり何かしらの「創作欲」に駆られてしまう人が多いのではないか。怪獣やヒーローが暴れるその画面ひとつを作るのに、どれだけの人の手と工夫が加えられているか。その舞台裏を知った上で再度本編を観てまた製作事情やメイキングを観て… という永久ループにはまり込んでいくと、「創る」という行為の魅力に憑りつかれていく。とはいえ、以前東北芸術工科大学の特撮サークルが発行されている広報誌について記事を作った時にも書いたのだけど、『「みんなで集まって“特撮”やろうぜ!」はどう考えても低いハードルではない』。

そんな中、オフ会で知り合った方がなんとヒーローショーチームを立ち上げておられて、まさに“低くないハードル”に挑んでらっしゃるというのだ。すごい。単純にすごいし、羨ましくもある、というのが本音。そんなこんなで、実はそのヒーローショーチーム「スターライト!」がこの度めでたく新ヒーローを登場させるということで、とっても微力ながら当ブログでもご紹介を! …という流れである。





「スターライト!」は福岡を拠点に活動するヒーローショーチーム(非営利団体)で、現在結成から1年目。メンバーの大半がヒーローショー未経験ということです。これまでは「広報キラメイカー」というヒーローが活躍していましたが(上写真右)、新たに「キラメイカーオウガ」を迎え、今後はオウガを中心に展開していくとのこと。

前述のようにオフ会にて代表の方と何度もお会いしているのですが、この「キラメイカーオウガ」は初期案(?)の頃にイラスト・名前・設定を見せていただいていたので、ついに実物として完成するのか!という謎の感動が…。当時の「和風のヒーロー」というと『仮面ライダー鎧武』がパッと思い浮かぶ時期で、「オウガ」の漢字は「桜雅」だ、などと話が盛り上がったり。「ピンクを使ったヒーローってぶっちゃけどうです?」という質問に、オフ会参加者が口をそろえて「ディケイドがいるから全然問題ないでしょ」となったのも面白かった。(正確にはマゼンタだけどそれはともかく)





『天下無敵のカブキ者。人々の自由と平和と風流の為に戦っている。大自然の力を自在に操る四季の鎧に身を包んでいるがその素顔は誰も知らない』『モチーフは桜、変幻自在の剣術を使って戦う』、という設定らしく、「四季モチーフ」というのが最大のトピックなのかな、と。四季モチーフのヒーローってパッとは思いつかないけれど、既存ので存在していたかな。もしかしたらローカルヒーローでいるかも、と思って調べてみると、「桜」をモチーフにした山梨の甲州戦記サクライザーが。「四季の鎧に身を包んでいる」という設定は中々にオタク心をくすぐられるというか、つまりは現在公開されているオウガは春をメインにした姿っぽいので、夏の姿や冬の姿もあるのかな、と妄想が膨らんだり…。

「スターライト!」は昨年の福岡学生演劇祭にてヒーローショー&アクション指導を行われたりと、着々と実績を積み上げられているとのこと。代表の方はかねてから「何か新しい試みは出来ないか…」とアイデアを練っており、その結果か、年末にはコンビニで入手できる小冊子を作製されたりも。


先日のスターライト!放送局でお知らせしました
【スターライト!情報誌 キラメイト vol.1 桜雅号】
がネットワークプリントサービスで配信開始しました!!!
組み立て式冊子ですので詳しくは画像のガイドラインをご確認ください。
29日13時までがダウンロード期限です、お早めに! pic.twitter.com/43WO2Y9iO6

— スターライト!公式 (@sutaraiofficial) 2016年12月21日

そしてその“新たな試み”として、現在「スターライト!」は「ヒーローショーのニコ生配信」に向けて動いているというのだ。


1月15日 21時から放送のキラメイカー桜雅配信ショーのタイムシフト予約開始しました!!
リアルタイムで観るお友達も、観れないお友達も要チェックだ!!!!

キラメイカー桜雅ショー https://t.co/dpxC61S8L6

— スターライト!公式 (@sutaraiofficial) 2017年1月9日

ヒーローショーは本来(?)演者と観覧者が場を共有し目の前でアクションが行われるものだが、それをあえて配信で行うことで、「その場に行かないと観られない」というリスクを取っ払う、と。ちょっと話は横道にそれますが、小さい頃に地元のデパートのヒーローショーでお兄さんの禁断の“お着がえ”を目撃してしまいショックを受けたという経験がありまして…。狭い舞台だったので、舞台裏の設置が十分ではなかったのだろう、とは思うのですが、そうなると「配信ヒーローショー」という形式は画面に収めたものだけが“舞台”なので、舞台裏の設置や目隠しに苦労することもないし、むしろやり方によっては“カメラワーク”という従来のヒーローショーには無い魅力も付加できるのではないか!…などと考えてしまう訳ですよ。

録画したヒーローショーを動画配信するのではなく、あえて「生でやる」というのは、すごく楽しそうでもあり、大変そうでもあり…。私も一介のファンとして、とても楽しみにしているのです。何より最初に書いたように、「特撮」を好きな者として、誰かの何かを「創る」という行為は、純粋に応援したいものです。「スターライト!」の今後の発展を、切に願っております…!





ということで、福岡のヒーローショーチーム「スターライト!」による、ニューヒーロー「キラメイカーオウガ」のお披露目ニコニコ生放送は、2017年1月15日(日)夜9時放送開始!悪事を働く怪人ワルイーターの『ヘッドファング』を懲らしめにやってきた天下無敵のカブキ者『キラメイカーオウガ』。だが彼に突如『魔の国』から現れた『断切のザンザス』の刃が向けられる!『キラメイカー』『ワルイーター』『魔の国』、最後に勝つのは誰だ!…というあらすじだけ、先に頂戴しております!

当日は、PCやスマホの前でオウガの活躍を応援しよう!!





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リドサウルスとエメゴジ。『原子怪獣現わる』と原作『霧笛』。ハリーハウゼンとブラッドベリ。
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『かいけつゾロリ』“原ゆたか先生特撮オタク説”を検証する!

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こんにちは、結騎 了(@slinky_dog_s11)です。

私も幼い頃に沢山読んだ児童書の生ける伝説、『かいけつゾロリ』シリーズ。満を持してのアニメ化は好評で延長&映画化もされ、原作児童書は今もなお年2冊ペースで発行を続けているという化け物コンテンツだ。悪事を企むも結局“いいヤツ”になってしまうゾロリと、その手下であるイシシとノシシのイノシシ、計3匹が織り成す珍道中は、この記事を書いている現在で60冊を記録している。私も幼い頃から何度も読んできた、大好きなシリーズだ。

そんな天下のゾロリシリーズだが、私はかねてからこのシリーズに抱いている思い、というか、疑惑(?)のようなものがある。それは、「原作者・原ゆたか先生は特撮オタクなのではないか」というものだ。まあ、「特撮オタク」と銘打つというより、「特撮映画を愛好されているのではないか」という趣旨である。というのも、このゾロリシリーズ、様々な特撮映画のオマージュや引用のようなものが見え隠れしているのだ。




▲原ゆたか先生。熊本県出身。


まず分かりやすいところでいくと、1992年に発行されたシリーズ第10作『かいけつゾロリの大かいじゅう』。宝くじに当たったゾロリが街中に「おかしのしろ(ゾロリじょう)」を建てるが、突如現れた「甘いものが大好きな大かいじゅう」がそのお城に向かって進撃してくる、というお話だ。





面白いのはこの「大かいじゅう」が出現した経緯で、作中のニュースキャスターと解説者の説明によると、『地下深くに眠っていた、5万年前に絶滅したと言われるトカゲの卵が、ゴミのヘドロによって温められ孵ってしまった。更には、まだ子供だが、公害の影響で巨大化してしまった』というのだ。…なんという怪獣映画ライクな設定!「絶滅したとされるトカゲ」という表現は、言わずもがな『ゴジラ(1954)』における「ジュラ紀の生物」という作中考察に近いものがあり、もっと言うと『原子怪獣現わる』のリドサウルスも北極で冷凍保存されていた太古の肉食恐竜とされている。公害によって目覚めて巨大化するという流れについても、「水爆実験・核実験・環境汚染等による怪獣出現(とどのつまり、人類へのしっぺ返し)」はこの手の映画の王道展開と言えるだろう。





この「大かいじゅう」は「ゾロリじょう」に向かって街を破壊し続けるが、物語の後半、怪獣がゾロリ城を目的とした本当の理由が明かされる。それは、ゾロリが「みんなをこわがらせるため」に城を怪獣の形に設計しており、生まれたばかりの大怪獣はそれが自分のママだと勘違いして近づいてきたというのだ。大怪獣は、ママだと信じたゾロリ城を力いっぱい抱きしめ、城は全壊してしまう。

「怪獣の親子」というトピックも、これまた怪獣映画としては王道の展開である。ゴジラとミニラ、ゴジラとリトルゴジラ、ゴジラとゴジラジュニア等々、怪獣王ゴジラのシリーズにおいても、この関係性は欠かせないものになっている(ゴジラの性別や実子かどうかとかゴジラザウルスだとか、という話は長くなるので割愛。あくまで構図としての「怪獣の親子」というニュアンスで)。他にも、子供を取り戻すためにロンドンに上陸するイギリスの怪獣映画『怪獣ゴルゴ』、それを受けての『大巨獣ガッパ』、『モスラ(1996)』でも怪獣親子の関係性が描かれている。ゾロリの「大かいじゅう」がこれらの作品を下敷きにしているかは不明だが、筋としては非常に近しいものを感じてしまうのだ。





また、ゾロリシリーズ第7作目『かいけつゾロリの大きょうりゅう』も、怪獣映画の香りを覚える一作になっている。あらすじを簡単に説明すると、見世物として捕獲されてきた恐竜の子供を観覧したゾロリが、自分はそれより大きいのを捕まえてくると豪語し恐竜がいる島に乗り込むも、そこにいた大きな恐竜は先に捕まえられた恐竜の母親であることを知り、同情したゾロリはママ恐竜と協力して子恐竜を奪還しに行く、というものだ。前述の『大かいじゅう』も含め、ゾロリが「ママ」にめっぽう弱いことは、シリーズ既読者にはお馴染みの要素だろう。





この場合の「恐竜の親子」はそのまま「怪獣の親子」として読み取ることができるが、別のポイントとして目を惹くのは、「子供の恐竜が見世物にされていた」という導入部分である。「怪獣を見世物にする(それによってしっぺ返しを受ける)」という物語は、これまた怪獣映画として王道展開であり、かの『キングコング』をはじめ、『モスラ(1961)』の小美人、『怪獣ゴルゴ』、『大巨獣ガッパ』、最近でいうと『ウルトラマンX』では「怪獣を利用して村興しを計画する」というプロットが披露されたりもしている。人智を超えた生物を利用する浅ましい人類は、この分野においては後を絶たない。







▲『ウルトラマンX』第10話「怪獣は動かない」より、不動怪獣ホオリンガ。


ちなみに余談ではあるが、この「恐竜の親子」は物語のラストで島に仲良く帰っていくが、後の『大かいじゅう』にて城を全壊させママを想って泣く怪獣を、ゾロリはママ恐竜に引き合わせ、あろうことか養子にしてしまっている。過去のキャラクターが頻繁に再登場するのも、本シリーズの魅力である。




▲きょうりゅう一家はアニメ劇場版にも登場。


また、そもそものシリーズ第1作『かいけつゾロリのドラゴンたいじ』にも、作者の特撮好きを思わせるページがある。それは、表紙にもなっている赤いドラゴンの解剖図だ。このドラゴン、実はゾロリがマッチポンプによりお姫様を手に入れようとして作った偽物であり、イシシとノシシがドラゴンの両足に搭乗し操演することで動き・火を吐くという、なんとも特撮マインドをくすぐる一品なのだ。この“中身”を解説する見開きページは完全に「怪獣図鑑」的な解剖図っぽく描かれており、透過した体の一部でゾロリの設計が見えるというものになっている。私も幼い頃にウルトラ怪獣の解剖図を飽きるほど読んだものだ…。







▲みんな大好き、怪獣の解剖図。


そして、「原ゆたか先生特撮オタク説」の中でも私が極め付けだと思っているのが、シリーズ第26作『かいけつゾロリ ちきゅうさいごの日』である。この作品は、「巨大隕石が地球に迫っている!このままでは地球は終わりだ!しかしゾロリたちは諦めない!“おなら”で隕石を押し返すぞ!」という(なんともゾロリらしい)物語で、品種改良されたおならの出やすい芋を食べたおならマイスターたちが、おなら増幅器を使って隕石を宇宙に押し戻そうと奮闘する様が描かれている。そう、分かる人は分かる!これはかの東宝特撮映画『妖星ゴラス』とそっくりなのだ!







『妖星ゴラス』は東宝による1962年の映画だが、ストーリーは、このままだと地球に衝突してしまう正体不明の燃える星・妖星ゴラスを回避しようと南極にジェット噴射基地を設置し地球の公転軌道を変えてしまおうと人々が奮闘する、という内容である。要は「隕石にぶつからないように、その軌道上から地球をズラしてしまおう」、というもので、この突飛な作戦が手の込んだミニチュアワークで描かれる作品なのだ。まあ、これだけだと「隕石襲来しか似てないではないか」という声も聞こえそうだが、ご安心(?)いただきたい。

なんと『かいけつゾロリ ちきゅうさいごの日』では、おなら一斉噴射直前に増幅器が事故で破損してしまい、隕石の正面に向けて角度をつけていた噴射口が、明後日の方向である上を向いてしまう。「これではおならは隕石に当たらない!」となるのだが、なんとそのまま発射されたおならは地球を下位置にズラし、隕石はそこを通り過ぎるという、まさに“ゴラス的解決”を迎えるのだ。原ゆたか先生!『妖星ゴラス』をご覧になったことは!ご覧になってはおりませぬか!!?




▲これが隕石を押し戻す“おなら増幅器”だ!




▲アニメ版での隕石接近シーン。


…などと、私が感じる「ゾロリは特撮映画に影響を受けているのでは」という部分を書き並べてみたが、これは何の確証もない一介の特撮オタクの妄言の域を出るものではない。タイトルで『検証!』とまで謳ってしまったが、それをする術がないのが現実である…。それでも何かヒントはないかと色々と探してみると、原作者・原ゆたか先生が2012年10月21日に放送された『情熱大陸』にて、「中野ブロードウェイでゴジラのフィギュアに目を輝かしていた」という情報を発見した。少なくともゴジラはお好きなんですね原先生!




六本木にあるというマンガに溢れた自宅兼仕事場でも、母親と家族を連れたプライベートのハワイ旅行でも、古いマンガやゴジラのフィギュアに目を輝かせる中野ブロードウェイでの買い物も、カメラが回らない風呂場、寝室でもイラスト入りで原ゆたかを演じ切る。

累計3200万部の『かいけつゾロリ』を創る作者に感動!



色んなインタビューを読み漁っても、中々「ご趣味」に言及されているものは見つからなかった。前述の『情熱大陸』も、原ゆたか先生回のディスク化はされていないので、実際の映像を確かめる術がないのが残念である。ぜひ、「原ゆたか先生×特撮映画」の情報をお持ちの方は、私のTwitterまでお知らせいただけると幸いです。

ということで、特撮映画好きにもオススメしたい「かいけつゾロリシリーズ」。児童書ながらコミックのような楽しさが追求されており、「うんこ」や「おなら」を恐れずに描き切るそのスタイルは、時に批難を浴びながらも、現在進行形で金字塔を打ち建て続けている。ぜひ懐かしみながら、手に取ってみてはいかがだろうか。


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『遊戯王デュエルリンクス』をプレイすると泣きそうになる。僕はまだ決闘者であることを許されている。

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こんにちは、結騎 了(@slinky_dog_s11)です。

以前から何度も『遊戯王』について書いてきた私だが、ご多分に漏れずスマホアプリ『デュエルリンクス』にもめちゃくちゃにハマっている。『10年ぶりに遊戯王に触れた浦島太郎デュエリストがあまりの環境変化に膝から崩れ落ちてかっとビングした話』でも書いたように、昨年の今頃は『タッグフォース』で遊戯王熱を高めていたが、その後の映画『THE DARK SIDE OF DIMENSIONS』で更に熱が高まり、そして待望のアプリ『デュエルリンクス』が予定から遅れてリリース。遅れた甲斐があったと言うべきか、本当に素晴らしいアプリに仕上がっていた。





というのも、「カードゲームのゲーム」というのは、実は非常に難しい。ギャザやデュエルマスターズに代表されるような遊戯王以外のカードゲームも沢山遊んでいたが、それがデジタルゲームとなると、どこか“別種のプレイング”を要求されてしまう。つまりは、「CPUは人じゃない」からである。…と書くと、頭がおかしくなったと思われそうだが、「CPUが人ではない」事は、「カードゲームゲーム」において最大の弱点であると、私はずっとそう感じていた。

理由を簡潔に書くと、「CPUは魔法カードをリバースしない」し、「セオリーに基づいた“読み”で攻めてこない」のである。遊戯王に代表されるカードゲームには人と人が交流するからこその土壌というものがあって、例えば前者なら「ブラフで罠カードに見せかけて関係ないカードを伏せる」、後者なら「今の環境だと『モンスター破壊のリバースモンスター』を多くの人がデッキに入れているから警戒しなければならない」といったものが、その“交流”により発生する醍醐味であったと私は感じている。「カードゲームゲーム」にはそれが無く(むしろそれを求めるのは酷な話であり)、それがこの類のゲームにおける“最大の弱点”であり、独特の“食い足りなさ”ではなかったろうか。

遊戯王には、持てる手札を使った詰将棋のような一種の“正解”はあるものの、それは麻雀における「まっすぐ切っていく」プレイングと同義であり、作ったデッキ・狙った形・場の状況・相手の狙いによって、一見不効率な判断を求められる場面が多々ある。「殴れるのに殴らない」「発動できるけどあえて見過ごす」「わざと自分のモンスターやカードを破壊する」。「人でないCPU」は、こういった不効率なプレイはよっぽどでないとしてこない。

つまり、「カードゲームゲーム」におけるCPUは、ブラフを仕掛けることもせず、日々移り変わる環境に適応することも出来ず、ひたすらに詰将棋のようなプレイングで攻めてくるのだ。そうなると、それに応対するこちらは必然として“読みやすく”なってしまう。「どうせ普通に攻撃してくるだろうから罠を張ろう」といったように、それは本来のカードゲームが持っていた“対人戦の面白さ”とは別種の何かになってしまう。




▲懐かしすぎるゲームボーイ版。


とは言いつつ、それは絶対的に仕方のないことだった。ゲームを作る人は、人工知能を作っている訳ではないのだ。パターン分岐の詰将棋を作るだけでも膨大な作業量だったろうし、その苦労を想うと感謝しかない。「CPU相手は読みやすい」とは言ったものの、普通に強いCPUは強いし、むしろ人間にはない機械的な発想(残ライフを的確に計算し無駄を省く、など)にハッとさせられた時もある。しかし、やはりどうしても、私にとってのカードゲームは、私にとっての遊戯王は、「誰かと面と向かって読み合うゲーム」だったのである。

自分がまだ「僕」と自称しつつ決闘者(デュエリスト)であったあの頃、近所のおもちゃ屋のカードゲームコーナーにはいつも人が溢れていた。暇さえあればそこに寄り、互いのカードを交換して、見知らぬ人とデュエルをして、時には上級生にコテンパンにやられ、時には下級生を罪悪感と共にボロボロに負かし、移り変わるゲーム環境に遅れまいと流行のプレイングを取り入れ続けた。家に帰れば兄弟とデュエルを繰り返し、相手がどんなデッキ構成かはもう分かり切っているのに、それでもハラハラドキドキしながら、読んで睨んで笑って語り合った。

大人になるにつれ、いつしか遊戯王から離れてしまった。今でも家のクローゼットには当時のデッキがそのまま眠っているが、新しく発売されるカードを買って、知らないカードにいちいち驚き、近所のおもちゃ屋に通い続ける生活はやめてしまった。勉強や部活が忙しかったり、お小遣いに他の使い道が出来たり、理由は様々なそれの複合型だったが、原作である『遊☆戯☆王』を引き続き溺愛しながらも、カードゲーム(OCG)そのものはもう何年もやっていない。これを書いている今も、そうである。





そんなこんなで前置きが長くなったが、そう、『デュエルリンクス』である。歴代の『遊戯王』キャラクターがフルボイスで喋ってくれるとか(掛け合いもまた素晴らしい)、斜めの画面構成がよく出来ているとか、BGMがアニメ版DMの雰囲気そのままだとか、カードの上にモンスターがソリッドビジョンっぽく出現するとか、気に入っている点を挙げればキリがないが、何より「コロシアム」モードである。全世界のデュエリストと、リアルタイムで通信対戦が出来るのだ。この!この素晴らしさといったら!顔こそ見えないものの!ブラフが飛び交い!新パックが発売される毎に流行りのプレイングが変わり!一見不効率なカード捌きが戦略の名のもとに交差する!これだ!!これが!!!遊戯王なんだ!!!

気持ちは一気にあの頃のおもちゃ屋のカードゲームコーナーに引き戻され、思わず涙が出そうになる。「アックスレイダー」の1700が星4モンスター最高打点だったのはもう古いのだ。そうやって、環境が!セオリーが!変わっていく楽しさ。「あ、これは『ダイダロス』の召喚がくるな!“今流行ってるから”!」と予想し、先回りしてフィールドカードを除去しておく楽しさ。相性の悪いデッキと当たってしまったことが“分かる”!だって今の環境だとアレとアレとあのパターンが多いから!そう気付ける楽しさ。新パックが発売され、新たなカードを目にした時の「やばい!これはセオリーが変わるぞ!」という焦燥感とワクワクを味わえる楽しさ!!





スマホさえあれば、どんな時でも何処にいても、あの頃の「誰かと面と向かって読み合うゲーム」を堪能できる。ゲーム機も通信ケーブルも約束して待ち合わせする必要もない。そりゃあ、さすがに文字通り“面と向かって”はいないものの、デュエルの本質的な部分でこれ以上なく“面と向かって”いるように感じるのだ。(まあね、『遊戯王ONLINE』はあったよ。ありましたけどね。やっぱり『デュエルリンクス』におけるスマホとの相性とは比べ物にならない…)

ありがとう、『デュエルリンクス』。本当にありがとう。プレイしていると、「こんなオッサンでも決闘者を名乗れる場があるんだ…」「リアルタイムで誰とでも分け隔てなくデュエル出来る場があるんだ…」という強烈なノスタルジーに襲われてしまい、心の奥がギュッと締め付けられる。誰だって、魂に嘘は付けないものだ。


デュエルリンクス、遊戯が本人ボイスで「アドバンス召喚!!」と叫ぶ違和感がすごい。 pic.twitter.com/GwYH1GltFW

— 結騎 了 (@slinky_dog_s11) 2016年11月19日

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“続編を製作する意義”に一切の妥協なし。映画「遊戯王 THE DARK SIDE OF DIMENSIONS」


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『かいけつゾロリ』“原ゆたか先生特撮オタク説”を検証する!
リドサウルスとエメゴジ。『原子怪獣現わる』と原作『霧笛』。ハリーハウゼンとブラッドベリ。
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『仮面ライダーエグゼイド』はいかに計画的に九条貴利矢を散らせたか

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こんにちは、結騎 了(@slinky_dog_s11)です。

今、『仮面ライダーエグゼイド』が面白い!…という三流文句を叫びたくなるほどに、今、『仮面ライダーエグゼイド』が面白い。自分の中では「絶賛大ヒット!」という声が毎週鳴り響いている状態だ。『クウガ』から観てきた平成仮面ライダーシリーズも遠いところまできたなあ、と感じつつ、『ディケイド』までのいわゆる“一期”の造り方と、『ダブル』以降の“二期”の造り方、その双方を上手くハイブリッドにしたのが『エグゼイド』なのではないか、という感慨深さを覚えている。

というのも、あくまで個人的な視点だと前置いた上で、『エグゼイド』を語る上で『仮面ライダー鎧武』という存在は外せないと考えている。(『電王』の下敷きを受け)『ダブル』以降確立した「2話前後編ゲストお悩み相談手法」を打破しようと、そこに“一期”の連続ドラマ性を盛り込み、裏切り・裏切られの群像劇を描いた『鎧武』。その挑戦の全てが上手くいったとは今でも決して思っていないが、“一期への目配せ”がスパイスとなったその造り方は、“二期”において今でも強い異彩を放っていると言えるだろう。ネット上でも清濁盛り沢山の意見が未だに交わされるほど、この作品は色んな意味で面白かった。

そんな『鎧武』が「1年間走り切れた」という実績、また、年間プロットをしっかり整備して部分的に逆算して謎を蒔いていく造り方は、私は確実に『エグゼイド』に引き継がれていると見ている。主義主張の違いで争い合う仮面ライダーたちと、その影でうごめく巨大な陰謀。

そして、更にはここに「平成ライダー要素のハイブリッド構成」を感じられるから面白いのだ。例えば、スマートブレインやボードやユグドラシルのような立ち位置のゲンムコーポレーション、そして前作『ゴースト』が1クール目で目指した「1話完結と縦軸連続ドラマの同時進行」。“一期”でよく見られたライダー同士のすれ違いや仲違いに、それと同時に描かれる“二期”の代表的要素と言える驚異的な新アイテム登場ラッシュ(ノルマクリア)。前述した「2話前後編ゲストお悩み相談手法」は一見「1話完結と縦軸連続ドラマの同時進行」と矛盾するようにも思えるが、「ライダーたちのストーリーを1話単位で完結させる一方で患者のドラマだけを2話前後編でクリアする」という離れ業。





はっきり言ってしまうと、私は『エグゼイド』そのものに“目新しさ”はあまり感じられない。つまり、これまでの平成ライダーが確立or挑戦してきた様々な要素をパズルのように組み合わせた「ハイブリッドな魅力」という印象が、非常に強いのだ。「これは『〇〇(クウガ~ゴースト)』っぽい」とついつい言いたくなる要素が散りばめられており、しかし断じて「寄せ集めの継ぎ接ぎだ」と感じる訳でもない。とにかく、足し算・掛け算、そして引き算が上手いなあ、という感嘆の声を漏らしてしまう。

メインライターの高橋悠也氏が17話現在全話ひとりで書き切っており、だからこそ「1話完結性」と「縦軸連続ドラマ」の絶妙な配分が途切れなく継続されるという、もはや感動の域に入り始めた『エグゼイド』。まあ、ここまで陶酔しつつも全部が全部完全無欠だとは思っていないが(未だに「この俺をゲームエリアに転送したか」のぶっとび展開を忘れない)、そんな部分も含めて大好きな作品になりつつある。永夢のゲーム病は、果たして“どこまで”“どの時点まで”“誰に”仕組まれたものだったのか。仮面ライダークロニクルとは一体何なのか。九条貴利矢が知ってしまった真実とは、一体何だったのか。物語の行く末が、毎週楽しみで仕方がない。





そんなこんなで前置きが長くなったが、そう、九条貴利矢である。「何らかの真実」を知ってしまったがためにその命を落としたキャラクターだが、いやはや、本当に“やられた”存在だった。まさかこんなに上手くやってくれるとは…。この『エグゼイド』がいかに計画的に九条貴利矢を散らせたかを改めて考えていくと、大森敬仁プロデューサーや高橋悠也氏の計算高いパズルの全貌が見えてくる。

何度も話が戻ってしまうのだけど、「話の序盤で命を散らすことで物語の過酷さを体現するキャラクター」という意味では、近年ではやはり『鎧武』の初瀬亮二を挙げない訳にはいかない。ヘルヘイムの実が持つ特性、そしてユグドラシルが無慈悲に計画を進める組織だという“次なる展開”を表現するために、初瀬亮二は怪物と化した後に絶命した。葛葉紘汰が初瀬を殺すことができず、水際で苦悩の声を漏らしたあのシーンは未だに脳裏に焼き付いているし、彼が無残に死んだことが『鎧武』の作品カラーを決定付けたのだと思っている。しかし同時に、私は初瀬というキャラクターに大きな“惜しさ”も覚えているのだ。最初からこういう役回りのキャラクターであったのであれば、もっと主人公と関わらせておけば、もっと物語の中央寄りにいれば、狙った効果は何倍にもなっただろうに、と。

初瀬は主人公である紘汰の携帯電話番号まで知っていた訳で、例えば「チーム鎧武とレイドワイルドがひょんなことから共同戦線を張る話」とか、そういう類のストーリー展開が事前にあとひとつでもあれば、もっと彼の死は意味を強めたと思うのだ。要は、視聴者が肩入れするには正直まだキャラクターが若干浅かったかなあ、と。初瀬という存在が『鎧武』において大好きだからこそ、ここにずっと(勝手に)心残りがあったのだ。





そしてもうお察しだと思うが、初瀬亮二からの九条貴利矢である。本当に私の勝手な注文だと何度もことわっておくが、私にとっての九条貴利矢は、「最高の形で命を散らした初瀬亮二」なのだ。OP映像から何から完全なメインキャラクターとして登場し、専用アイテムも専用武器もしっかり与えられ、主人公と一番早く近付きながらもまた離れ、彼の過去を下敷きにした信頼のドラマをしっかり積み重ねた後に、物語の縦軸が持つ謎を最高に煽りながら敵に殺される。なんというパーフェクト初瀬亮二…!!

散々言われていることだが、共通のゲーマドライバーは九条ひとりがリタイアしたからといって出番は減らないし、バイクそのものは歴代でもトップクラスの強烈な個性を帯びたまま物語に残り続けるし、ガシャコンスパローはゲンム(ゾンビゲーマー)がまるで「死神の鎌」のように継続して使い続けるし、「物語的な意味」でも「販促上の事情」でも、九条貴利矢が持っていた要素はほぼ全てが無駄なく“今もなお”機能しているのだ。それでいて、もはや言うまでもない「これは命がけの戦いなんだ」という作品カラーへの影響もこなしている訳で、いやはや、よくこんなにも“しっかり用意してしっかり殺した”なあ、と。

加えて、演じる小野塚勇人氏が本当に素晴らしかった。「嘘つきで軽い監察医」というチャラけながらも腹の底が読めない人物を、絶妙に演じ切ってみせた。もう既にそうなっているが、ファンに末永く愛されるキャラクターとしてずっと語り草になっていくだろう。第7話「Some lie の極意!」は特に秀逸で(タイトルからして最高!)、「嘘を付く行為そのものが彼の他人への優しさであり、しかしそれが肝心な場面で仇となる」という展開は、神の視点で彼の過去をも観ている我々視聴者が主人公を差し置いて真っ先に感情移入してしまう見事なキャラクターを造り上げた。しっかり感情移入させて、しっかり退場させる。これから、劇中でバイクが登場する度に心のどこかがチクリと痛んでいくのだろう。





『エグゼイド』の魅力は「平成ライダーあるあるが盛り沢山のハイブリッドな構成」、そしてそれを構築する「計算高いパズル」だと書いたが、その象徴的な存在が九条貴利矢だと思えてならない。彼と彼の死のおかげで、謎は謎のまま更なる重要性を帯び、ゲームオーバーの恐怖と常に隣り合わせで、主人公はとっても思い出深いバイクを乗り回しつつ、犠牲を出してしまったという後悔と復讐の念をはらみながら物語は進行していくのだ。ありがとう、九条貴利矢。本当にありがとう。そして、彼を見事に散らせた製作陣が描く“パーフェクトパズル”を、最後までしっかり見届けていきたい。


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【過去記事】
『遊戯王デュエルリンクス』をプレイすると泣きそうになる。僕はまだ決闘者であることを許されている。
『かいけつゾロリ』“原ゆたか先生特撮オタク説”を検証する!
リドサウルスとエメゴジ。『原子怪獣現わる』と原作『霧笛』。ハリーハウゼンとブラッドベリ。
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【ネタバレ考察】『ニューダンガンロンパV3』の結末は至上の“ダンガンロンパ”である

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【注意】本記事にはゲーム『ニューダンガンロンパV3』のトリック・犯人・結末に関するネタバレが含まれています。未プレイ者は読まないことを強く奨励します。






こんにちは、結騎 了(@slinky_dog_s11)です。

やっとこさ『ニューダンガンロンパV3 みんなのコロシアイ新学期』のストーリーモードをクリアし、エンディングまでの全てを目撃した。風の噂で結末には賛否両論だと聞いてはいたが、それ以上の具体的な情報を完全にシャットアウトして臨んだ最後(6章)の学級裁判。“新章”を謳いながらも希望ヶ峰学園の要素が登場した5章で臭わせた通りに、真の黒幕は江ノ島盾子のフォロワーであったことが判明する。

ダンガンロンパシリーズ初の「生き残っているメンバーの中に黒幕がいる」展開を経るも、ストーリーは更に斜めに転がり続けていく。全ては「ダンガンロンパというフィクションの物語」だと明かされた作中人物たちの“放棄”という結末、そして命を投げ出すエンディング。全てを終えて、私は心からの拍手を贈りたい気持ちでいっぱいだった。そうだ、これだ、これがダンガンロンパだ、と。というより、本音を言うと、むしろこれが賛否両論なことに驚いている。

ダンガンロンパって、私の中では最初から“こういうもの”だったし、今作もそれをしっかり全うしたという印象がある。むしろ、これを“是”とする気構えのようなものを、私はこのシリーズから教わったとすら思っているからだ。





「現状維持は衰退」。かのウォルト・ディズニーが残した格言として有名だが、キワモノだった単発ゲームが巨大なメディアミックスを構築するコンテンツにまで成長し、アニメに舞台にスピンオフに目覚ましく発展してきたからこそ、私はこの言葉がぴったりのように思える。『V3』において、ダンガンロンパは“現状維持”を選ばなかった。みんなが幼少期から聴き慣れた心の友である大山のぶ代に破廉恥かつ下品な単語をこれでもかと叫ばせ、十代の少年少女が意図的に無残に命を散らされ、しかしそれらを“論破”“裁判”といういかにも匿名掲示板に慣らされた現代の退屈人が好みそうな要素でクレバーに彩ってみせる。そういう「攻め」こそがダンガンロンパであったし、『V3』でも確かに「攻め」た。あとは、その方向性に好みが分かれるというだけの話だ。

しかし前述のとおり、私は『V3』においてこの「攻め」の姿勢が貫かれたことこそに拍手を贈りたいのだ。すごい!ダンガンロンパというコンテンツを、作り手自ら暗礁に乗り上げさせた。分かっていて、わざと雲行きを怪しくした。上では「むしろこれが賛否両論なことに驚く」と書いたものの、それはあくまで私個人の感想に照らし合わせた感情であり、“こんな結末”にすれば賛否両論になるのは火を見るより明らかなのだ。

これまで何度も我々シリーズファンの感情を操ってきた製作陣が“そんなこと”も分からずに“こんな結末”を用意したはずがないのだ。分かっていて、それでもやった。誤用の意味での盛大な確信犯。しかも、フィクション世界でフィクション世界を取り扱うという究極のメタ&タブー。これ以上ない「攻め」だし、いくところまでいった訳だし、これ以上は“ない”だろう。だからこそ賞賛したいし、だからこそ感慨深いのだ。ダンガンロンパというシリーズは、最後の最後まで立派に我々を翻弄してくれたのだ。





むしろ私は、『V3』は4章までの方がいまいち乗り切れなかった。つまらない、の一歩手前というか、要は“目新しさ”が無かったが故の無感情に近い感覚があった。北山猛邦氏も参加したという各章のトリックそのものは非常に凝っていたし、一章でやってのけた叙述トリック、プログラム世界というゲーム媒体だからこそ成立・演出できる舞台設定など、むしろ過去2作より凝り過ぎなくらい凝っているという印象があった。しかし同時に、「トリックにいくら凝ろうがそれはダンガンロンパとしては新しくない」という感覚が非常に強く、要は、そこをいくら深めても単にバリエーション・パターン違いの範疇に収まってしまう悔しさを覚えてしまっていた。「面白い。確かに面白いのだけど、これは“俺の知っているダンガンロンパ”でしかない」。4章までの『V3』は、決して私を翻弄させてはくれなかったのだ。気に入ったキャラクターが死ぬ喪失感も、学級裁判の面白さも、配置された謎要素も、全て過去作プレイを通して“見知った”要素でしかなかったからだ。

そうして、私は4章までは「ストーリーのオチを見るためにプレイを進めていた」というのが本音だ。確かに面白かった。非常に面白かった。けど、この「面白い」は「ダンガンロンパにおける“面白い”」とイコールではない。「普通に“面白い”」は、「ダンガンロンパにおける“面白い”」ではない。そんなんじゃ足りない。そんなんじゃ、ダンガンロンパとしては足りない。

見知ったルールの中で見知った展開がバリエーション違いで発生する。そんなんじゃ全然足りない。1作目で翻弄され踊らされたあの感覚、その1作目を踏まえた謎で最後まで圧倒的な牽引力を見せた2作目、それに続く3作目として、“こんなの”じゃ食い足りないのだ。知ってる展開。知ってる感情。ただバリエーションとパターンが違うだけ。それは、私が渇望する「ダンガンロンパにおける“面白さ”」に届くものではなかった。





だからこそ、5章で希望ヶ峰学園の要素が登場した際に、私は歓喜の叫び声を上げた。この『V3』発表時に、「希望ヶ峰学園シリーズはアニメで完結」&「新シリーズをゲーム3作目でスタート」という趣旨の報道がなされ、「『V3』は希望ヶ峰学園とは別の舞台と物語」という先入観を植え付けられていた。とは言いつつ警戒心を緩めることはなかったが、それでも「やっぱり希望ヶ峰学園関連の物語でしたー!」という展開は、「やってくれたな!」と笑顔になってしまう。…とはいえ、とはいえ、だ。“これ”すらも、喜びつつもやはり既定路線というか、想像の範囲に収まるものであった。その理由は、「これがダンガンロンパだから」である。

ダンガンロンパとはどういうゲームか。ディレクター兼シナリオライターの小高和剛氏は、インタビューで以下のように述べている。




――これまでと大きく変えたところ、逆に変えなかったところについて教えてください。

「閉鎖空間に閉じ込められた16人の生徒たちがコロシアイをする」というシチュエーションは、前2作と変わりません。そこは「『ダンガン』ってこうだよね」とユーザーさんが期待するところなので、変えようとは思いませんでした。

モノクマ的『ニューダンガンロンパV3』舞台案内! 「ダンガンロンパ」シリーズ開発者の声も【特集第3回】



確かにここにあるように、「閉鎖空間に閉じ込められた」「16人の生徒たち」「コロシアイ」というシチュエーション、そして、それに付随する「学級裁判」「おしおき」といったシステム、マスコットキャラである「モノクマ」は、紛れもないダンガンロンパのアイデンティティだ。これこそがダンガンロンパであり、これが無くちゃダンガンロンパではない、と言い切れるほどに。しかし、シリーズのファンの方はご承知のことと思うが、これは「ダンガンロンパのアイデンティティ」であると同時に、「江ノ島盾子のアイデンティティ」でもあるのだ。世界に絶望を伝播させた江ノ島盾子こそが、ダンガンロンパという世界観・システム・マスコットキャラ、その全ての“担い手”なのだ。

つまりは、「ダンガンロンパがダンガンロンパである以上、江ノ島盾子からは逃れられない」という呪縛が、このシリーズをずっとシリーズ足らしめてきたのである。だからこそ、今回の『V3』が小高氏の語る【そこは「『ダンガン』ってこうだよね」とユーザーさんが期待するところ】を満たしている以上、それはイコール、「江ノ島盾子に関わる物語」でしかあり得ないのだ。

コロシアイの構図を作ったのも、学級裁判という制度を設けたのも、おしおきという処刑ルールを強いたのも、そして何よりモノクマを作ったのも、他ならぬ江ノ島盾子なのだ。1作目、2作目、そしてアニメ『3』を観た人ならば、この意味は嫌でも分かるはずである。「フォロワーの犯行」を含め、ダンガンロンパがダンガンロンパである以上、江ノ島盾子と完全に切り離した産物になるはずがないのである。







だから私は、「希望ヶ峰学園とは切り離した(と思われる)完全新章」の『V3』に「よくぞ割り切った!」と感心しつつ、それでも『V3』がダンガンロンパである以上(もっと言うと、モノクマが出ている以上)それは絶対に「江ノ島盾子に関わる物語」=「希望ヶ峰学園の物語」という証左であり、何重にも矛盾した期待値と警戒心を抱きながら『V3』をプレイしていたのだ。そして案の定、過去作から切り離した作りではなかったことが、5章で明らかになる。「江ノ島盾子」「希望ヶ峰学園」「絶望の残党」。嫌というほど聞き慣れた単語が一気に飛び交い始める。

この時点ですでに「(半ば想定内とはいえ)よくぞ“完全新章”の看板を裏切ってくれた」という爽快感を抱いていたが、物語は更に二転三転。江ノ島盾子のフォロワーであった白銀つむぎが江ノ島盾子の姿で登場し「ここでコスプレイヤーの設定が活きてくるのか」と感心していたが、物語はそこから更に斜め上の方向にブーストをかけ出す。「この世界は視聴者が存在する“ダンガンロンパというリアルフィクション”である」。つまり、主人公や仲間の全てが視聴者に面白がってもらうために作られた“キャラクター”であったというのだ。…という、いわゆるメタフィクション展開に突入する訳だが、まさか1作目や2作目までもを巻き込んだ壮大などんでん返しを発動してくるとは思ってもみなかった。

言うまでもなく、『V3』作中でダンガンロンパを鑑賞する世界中の一般市民は、このゲームをプレイする現実の我々を模している。「絶望は伝染する」とはよく言ったもので、それがつまりフィクションの世界を突き抜けて「絶望は伝染する(ダンガンロンパをプレイしたくなる)」という意訳が出来てしまうほどに大きなコンテンツに成長したダンガンロンパ。我々はこの作品を通して、必然的にコロシアイを求め、おしおきを求め、精神的苦痛を求め、血を求め、裏切りを求め、そして、「その絶望を最後には愚直なまでの希望が打ち砕く」という“分りやすいカタルシス”を求めているのだ。とことん絶望が蔓延り、物語は“下がり”、そして希望が勝利する“上げ”展開でスカっとする。この感情の推移までもが、紛れもない「ダンガンロンパ」なのだ。





希望が勝ったから何だというのだ。それはフィクションの中の出来事。我々の世界が何か良くなる訳ではない。絶望が負かされたから何だというのだ。全てはフィクションの中で起きたこと。分かりやすい適役がその野望を挫かれただけ。そうやって、我々はフィクションに対する内心冷静な“壁”を持ちつつ、それでも、分かっていながら、フィクションに熱中する。分かっていてなお感情移入を期待し、分かっていてなお物語への没入を試みる。

つまり、『V3』が試みた「攻め」は、「ダンガンロンパがダンガンロンパでなくなること」なのだ。それは、「ダンガンロンパの核を成す要素が全て江ノ島盾子の手によるもの」である以上、作品的「模倣犯」を除外した後の、たったひとつの解答。

“新章開幕”。新しいダンガンロンパの幕を開けることは、江ノ島盾子からの脱却=ダンガンロンパからの脱却でしか“成立し得ない”。そこまでに、そうやって自壊するしかないほどに、ダンガンロンパはコンテンツとして膨れ上がってしまったのである。ダンガンロンパがダンガンロンパであることを脱却しようとするのであれば、それは、ダンガンロンパという“フィクション”をひとつ上の次元で正真正銘の“フィクション”に貶める他に手立てはない。だって、最初からダンガンロンパなんてフィクションなのだ。苗木誠なんて人間は、この世に存在しないのだ。みんな分かっていたそれを真正面から突き付ける手段しか、もう「攻め手」は残されていなかったのである。

「ダンガンロンパが新しいダンガンロンパであろうとするならば、これ以上ダンガンロンパであってはならない」。まるで禅問答のような一文だが、私は『V3』にこのようなテーマを感じ取ったのだ。これまでと同じ希望ヶ峰学園を舞台としたダンガンロンパでは、それは常に「攻め」てきたダンガンロンパには許されない“現状維持=衰退”。かといってコロシアイや学級裁判という設定だけを借りた別パターンのダンガンロンパでは、それは江ノ島盾子のアイデンティティから逃れられないことを同時に意味付けてしまい、これもまた“現状維持=衰退”。「ダンガンロンパが新しいダンガンロンパであろうとするならば、これ以上ダンガンロンパであってはならない」。新しいダンガンロンパには、“新章”の名のもとに過去に積み上げた全てを使ってその全てを崩すしか道が残されていなかったのである。そして、その「新しいダンガンロンパ」を求めたのは、作中同様、外の世界の一般市民(=我々)なのだ。





だからこそ、だからこそ、だ。私は、この『V3』のクライマックスの展開に、心から拍手を贈りたいのである。ちゃんと最後まで「攻め」た。立派に「攻め」きった。大きな大きなコンテンツに育ったダンガンロンパにこういう道を辿らせるのは、生みの親(製作陣)として苦渋の決断だったと思われる。しかし、ダンガンロンパがどこまでもダンガンロンパであるために、ダンガンロンパを“崩す”。その偉大なる決断がこうして本筋のナンバリングタイトルで行われる潔さ。よく「攻め」た。よくぞ自壊した。よくぞ思い切った。よくぞ“やからした”。それでこそダンガンロンパだ。

ここまでくると、作中の白銀つむぎが語るフィクションが果たして“どこまで”なのかを考察することすらも無意味に思えてくる(記憶捏造の有効範囲、プロローグとの相違点等、挙げればきりが無いのだけど)。彼女が「ダンガンロンパというフィクション」の可能性を作中で提示した時点で、「ダンガンロンパがダンガンロンパでなくなること」はほぼ達成されてしまったからだ。

そして主人公たちは、「希望で打ち勝つ」ことも、「絶望に屈する」ことも、そのどちらも選ばない。「分かっていてなお感情移入を期待する」ことも、「分かっていてなお物語への没入を試みる」ことも、彼らは許してはくれない。ただただ、プレイする我々を翻弄し突き放して終幕に突き進む。ダンガンロンパの特性である「絶望に希望が打ち勝つことで演出される感情の推移」すらも、意地でも“達成させない”。それこそが、至上の「攻め」であり、それこそが「ダンガンロンパ」だからだ。





『V3』を終え、今改めて振り返ると、私が1作目からずっとダンガンロンパの“なに”に惹かれていたかが、やっと見えてきたように感じる。私はダンガンロンパの「豪華声優陣」に惹かれた訳でも、「ストーリー」でも「世界観」でも「ゲームシステム」でも「キャラクター」でもなくて、その全ての要素が絶妙に噛み合い・影響し合い・補い合い、しかし確実に尖ったキワモノの面をする「コンテンツ」の形そのものに惹かれていたのだ。“ダンガンロンパ”という、唯一無二のバランスを持つ“集合知”。

その「唯一無二性」が現状維持に甘んじることなく、いくところまでいった。ダンガンロンパであることに華々しく殉じた。果敢に攻めて突き抜けて、そしてまるで崖から勢いよく飛び出していった。まさにそれこそが、「ダンガンロンパ」なのではないだろうか。脇道に逸れる「ダンガンロンパ」や、ましてやスピードを緩める「ダンガンロンパ」なんて、見たくはなかったし、今回嬉しくも見なくて済んだのだ。かくして、『ニューダンガンロンパV3 みんなのコロシアイ新学期』における“才囚”は“最終”として、実質的なシリーズ完結編の地位に堂々と君臨してみせたのだ。


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